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[コービー・ブライアント引退記念コラム]憎まれ役から英雄へ――コービーの20年間を支えたもの(宮地陽子)

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Kobe Bryant

若きコービーの苦い記憶

デルタ・センターを埋めた1万9911人のジャズファンの歓声と野次が響き渡る中、18歳のルーキー、コービー・ブライアントがドリブルでボールを運んできた。

1997年5月12日、ウェスタン・カンファレンス準決勝ロサンゼルス・レイカーズ対ユタ・ジャズ第5戦。1勝3敗とすでに王手をかけられていたレイカーズにとって、負ければシーズンが終わる瀬戸際の一戦だ。

第4Q残り11秒で、89対89の同点。

エース、シャキール・オニールがファウルアウトし、ベテランシューター、バイロン・スコットが故障で欠場、中堅シューターのロバート・オーリーは相手選手との喧嘩で退場という苦しい状況で、レイカーズの当時のヘッドコーチ、デル・ハリスは勝負をルーキーのコービーに託すことにした。

当時、コービーはコーチから最後のシュートを任されたことに興奮していた。

「いつも夢みていた場面だった。プレイグラウンドでよく、試合に勝つチャンスがある場面でボールを手にしたら……ということを考えてやっていたからね」。

11…10…9…。残り時間が10秒を切っても、コービーはコート全体を見渡すようにゆっくりとドリブルをついていた。4秒を切ったところで、一気にトップギアに切り替えて切りこむ。そしてフリースローライン近くで止まり、フットワークを使ってジャンパーに持ち込む。その後、NBAキャリア20シーズンを通して、コービーの最大の武器となるプルアップジャンパーで勝負をかけたのだ。フェイダウェイ気味に跳ぶことでディフェンスをかわし、シュートを放つ。ここまでは計画通り。

しかし、あろうことか、打ったシュートはリングをかすめることもなく手前で落下し、ジャズのフォワード選手、カール・マローンの手の中に落ちた。ジャズファンの歓喜の声が広がり、コービーの夢物語は、一瞬にして悪夢に変わった。

それでも、オーバータイムに入ってからも、コービーはシュートを打ち続けた。オーバータイム最初のシュートはディフェンスが近くにいないノーマーク状態での3ポイントショット。いつも通りにフォロースルーもしっかりしたつもりだったが、ボールはリングの手前に落ちた。ジャズファンが喝采するなか、コービーは口を一文字に結び、ディフェンスに戻った。

オーバータイム終盤、3点を追いかけるなかで、同点を狙って残り42秒にトップから放った3Pも、残り4秒に打った3Pも、どちらもリングに届かないエアボール。苦々しいルーキーシーズンの結末だった。

試合後、コービーは、精一杯強がって言った。

「クラッチタイムに、こういう形で負けたのは初めてだ。でも、僕はここから学んでいく。できれば、明日、来シーズンが始まってほしいぐらいだ」。


ルーキーシーズンの1997年プレイオフ、ウェスタン・カンファレンス・セミファイナル、コービーはユタ・ジャズとのシリーズ最終戦でエアボールを連発し、プロの洗礼を浴びた

高校卒業と同時にプロの世界に飛び込んで1年目、コービーは乱気流の間を飛ぶ飛行機のようにアップ&ダウンの激しいシーズンを送っていた。成熟したスキルや才能の片鱗を見せる一方で、荒削りで独りよがりなプレイに走り、ベンチに下げられることもあった。相手チームからのマークが厳しくなり、フィールドゴール成功率が2割台に落ち込んだ試合も何度もあった。

それでも、コービーは自信を失うことはなかった。ヘッドコーチのハリスに、自分のためのアイソレーション・プレイをコールしてくれと直訴したこともあった。

「コーチ、僕にボールを持たせてくれて、他の選手がどいていてくれたら、マークマンが誰でも負かすことができる。誰が相手でもポストアップで攻められる」。

18歳、まだ実力以上に自信過剰で、実に生意気な若造だったのだ。

コービーが生意気で自信過剰だったのは、プロに入る前からだった。フィラデルフィア郊外にあるローワー・メリオン高校時代、フィラデルフィア・76ersの選手の夏のスクリメージや個人ワークアウトに顔を出すようになると、シクサーズ選手たちを相手に腕試しをした。といっても、最初から胸を借りるという態度ではなかった。相手が誰でも自分のほうが上手いと自負し、常に負かすつもりで対戦していた。

NBA1シーズン目を終えたばかりのジェリー・スタックハウスを相手に1対1の勝負をしたこともあった。

「彼は僕の上からダンクしようとしたんだ」とスタックハウスは、当時を思い返して言う。プロが相手でも、遠慮も怖気づくこともなかった。

そんな鼻っぱしらの強さに惹かれるファンがいた一方で、生意気で自信過剰なところに反感を覚える人たちも多かった。ジャズとのプレイオフで連続エアボールを放った後には、「それみたことか」とばかりに批判の声が大きくなった。

それでも、どれだけ叩かれてもコービーは変わることはなかった。自分の価値観を曲げることはなく、自信を失うこともなかった。プロ集団のNBAチームの中でさえも目立つほどの自信は、自分勝手、傲慢、独りよがりなどと描写され、時に周囲から浮き、孤立することさえあった。言葉をほんの少しオブラートで包むだけで、周囲への当たりは柔らかくなり、受け入れてもらえたかもしれないが、人一倍負けず嫌いな心がそれを我慢できなかった。そして、そんな態度に、アンチ・コービーは増えるばかりだった。

「あの経験が、僕の土台を作った」

ブーイングや批判は気にならなかったが、大事な場面で、自分が、自分自身の期待に応えられなかったという事実はコービー自身にも堪えた。

その最初の経験が、ジャズ戦でのエアボールだった。

「当時は、すごく惨めだった」。

引退を前に、内面をさらけ出すようになったコービーは、最近になってそう認めた。

人生では、往々にして失敗して、惨めだったときが転機となる。コービーの場合もそうだった。

「あれは、僕にとって初期のターニングポイントだった。18歳にして正念場を迎えていた。今から振り返るといい思い出だけれど、当時は本当に惨めだった」。

シーズンが終わり、オフに入ってからも毎日のように試合のことを思い返し、その状況を変えるために、何をしなくてはいけないかを考えた。プレイオフのような負担が大きくなる試合で、30分、40分とプレイタイムが増えても、練習のときと変わらずにシュートを打てるように、トレーニング方法などを根本から見直した。

「あの経験が、僕の土台を作った。若いうちは、目の前にある苦しい状況が、後にどういった形で見返りとなるかわからないものだ。でも、それを自分のモチベーションとして使った結果が今の僕だ。だから、今ではいい思い出として振り返ることができる」。

思えば、20シーズンはこの繰り返しだった。シーズン中も練習で手を抜くことはなかったが、オフシーズンはさらに自分を追い込んだ。オフシーズンでも早朝から起き出し、ワークアウトを欠かさなかった。ウェイトトレーニングで身体を作り、誰もいない体育館で、ひとりで何時間もかけて、ありとあらゆる角度や距離のシュートを繰り返し、フットワークを磨いた。

向上心に突き動かされたのは体育館に居るときだけではなかった。コートを離れた後も、テレビで野生の動物のドキュメンタリーを見ては、その動きの中に自分のヒントを見いだそうとした。スポーツ選手に限らず、革新的な考え方をする人たちの本を読んでは、彼らの考え方から学べることがないか考えていた。いつでも、よりいい選手となるために、完璧に近づくために努力をし続けた。その結果、年月を重ねるごとに、大きな自信に見合うだけの実力がついてきた。

そんな裏の努力について、コービーは多くを語ることはなかったから、中堅選手になっても、ベテラン選手になっても、コービーの自信満々な態度は人々の癇に障るばかりだった。特にフィル・ジャクソンがレイカーズのヘッドコーチとなり、NBA優勝を果たし、リーグの頂点に立つようになってからは、そんなコービーの競争心むき出しの態度が敵チームやそのファンの標的となった。


敵地の観客からのブーイングも力に変えた

もともと、野次もブーイングも気にしないコービーだが、いつの頃からか、憎まれ役であることを歓迎するようになった。国民的英雄のスーパーマンよりは、ダークな一面を持つバットマンを好み、自らに『ブラックマンバ』のあだ名をつけた。静かに狙いを定め、ここと思った瞬間に一瞬で獲物をとらえる毒ヘビは、まさにコービーのメンタリティそのものだった。と同時に、優しいところがあるチームメイトのパウ・ガソル(現シカゴ・ブルズ)にも、『ブラックスワン』になれ、と説いた。勝負する者として、遠慮する気持ちや、人から嫌われたくないという気持ちは勝負の邪魔というのが、コービーの持論だったのだ。

皮肉なことに、自らをヒーローではなくヴィラン(悪者)だと名乗るようになったコービーのことを、人々は少しずつ崇め、熱狂するようになった。それは、完全無欠なヒーローよりも、コート上のコービーのペルソナにはまっていたからかもしれない。完全無欠ではないことを認めたことが好感を得たのかもしれない。マグマのように熱い競争心に心が震えたのかもしれない。いつも手を抜くことなく、誰に遠慮することもなく、情け容赦なく上を目指し続けるコービーの姿に敬意を持つようになったからかもしれない。

あるいは、それらすべてだったかもしれない。

今シーズン序盤に、引退後、どんな選手としてファンの記憶に残りたいかと聞かれたコービーは、言った。

「才能あるオーバーアチーバー」。

自ら才能あると言い切る自信と、オーバーアチーバー(期待以上の結果を出した人)だと明言できるだけの努力をしてきた自負。それこそが、20年間のコービーのキャリアを支えてきたものだった。


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著者
宮地陽子 Yoko Miyaji Photo

スポーツライター/バスケットボールライター