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ビッグチケットに敬意を捧ぐ

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ザ・ビッグチケット。ザ・キッド。ケビン・ガーネット。

どの愛称、呼び名だろうと構わない。1995年ドラフト全体5位でミネソタ・ティンバーウルブズから指名された直後から、彼はラシュモア山の麓に本拠地を置くバスケットボールチームの一部となった。

ときに声を荒げ、感情的になるリーダーだった。多くの少年にとって、彼こそミネソタのバスケットボールの象徴だった。

だが、全てのレジェンドたちに共通するように、いつかはお別れを言わなければならない。9月23日(日本時間24日)、“3の法則”が正しかったことが証明された。NBAコミュニティは、2016年のシーズン終了後、ロサンゼルス・レイカーズの象徴だったコービー・ブライアント、サンアントニオ・スパーズの偉大な選手だったティム・ダンカンを既に失っていた。そして、ウルブズのトレーニングキャンプが始まる3日前、ガーネットが現役引退を表明した。

『ケビン・ガーネット』という書物は、魅惑的な一冊だ。

その物語は、1995年、ドラフト前のワークアウトで当時ウルブズのヘッドコーチだったフリップ・サウンダーズを驚愕させた場面から始まる。同年のドラフト候補選手の中には、ジョシュ・スミス、ジェリー・スタックハウス、ラシード・ウォーレスといった、大学で活躍したビッグネームたちが揃っていた。

多くのチームは、高校を卒業したばかりのガーネットに見向きもせず、懐疑的な見方を示した。しかし、彼は現役生活を通じ、自分に向けられた全ての疑問に答えを出して見せた。

ファラガット高校を卒業した線の細い子供は、最終的にNBAの歴史に名を残すことになる。

身長213cmのパワーフォワードは、2年目にオールスターに選出されると、それからの16年間で14度オールスターに顔を連ねた。

1989年にリーグに加入したティンバーウルブズは、創設から低迷期に喘いだ。しかし、ようやく球団の顔となれる選手、ファンがジャージーを購入したいと思う選手、ファンが「自分たちの選手」と呼びたいプレイヤーを獲得した。

ウルブズの一員だった1995年から2007年までの間、オールスター選出10回、リバウンド王に輝くこと4回というキャリアを送ったガーネットは、1997年から2004年までチームのプレイオフ進出に貢献した。

2004年にはチームをウェスタン・カンファレンスファイナルにまで導き、シーズンMVPも受賞。キャリア最高となる1試合平均22.1得点、12.7リバウンド、4.6アシスト、2ブロックという素晴らしい成績を残したが、カンファレンスファイナルでは惜しくもレイカーズに2勝4敗で敗れた。まさにこの瞬間こそが、ガーネット時代のウルブズの全盛期だった。2005-06シーズンには33勝49敗と低迷。そして2007年7月31日、ウルブズはガーネットをトレードし、再建の道を歩むことを決断した。ウルブズファンにとっては悲しい1日だっただろう。だが、それと同時に、ガーネットが優勝リングを手にする機会を掴んだ日でもあった。同年、ミネソタで背番号5番の緑のジャージーを着て、ボストンで奮闘するガーネットに声援を送った少数のファンの姿も見られた。

ミネソタで長年追い求めたリングを手にするまで、さほど時間はかからなかった。ボストンに移籍した1年目、セルティックスは優勝を果たす。優勝直後、ガーネットはミネソタで自分を支えてくれた全ての人に感謝の気持ちを示した。

それからボストンで5年プレイしたガーネットだったが、ミネソタで記録したような個人スタッツを残すことはなかった。それは、チームの勝利のためにガーネットが犠牲にしたことでもあった。それでも、当時リーグのベストディフェンダーの一人と評価されたのだ。

セルティックスでのレイ・アレン、ポール・ピアースとの時代も終わりを告げ、2013年のシーズン開幕前、ガーネットとピアースはブルックリン・ネッツにトレードされた。

ブルックリンでは、プラン通りに物事が進まなかった。たとえ本人が強く望んでいたとしても、37歳でネッツにトレードされたガーネットは、以前と同じプレイヤーではなかった。ネッツでの1年目に記録した平均出場時間は、僅か20.5分。ネッツはプレイオフにこそ進出したものの、セカンドラウンドで敗退した。だが、ガーネットのキャリアは、ここで終わりではなかった。

ブルックリンで開催されたオールスターウィークエンドのイベントでザック・ラビーンとアンドリュー・ウィギンズがファンを沸かせた直後の2015年2月19日、ガーネットのキャリア最終章が幕を開けた。

当時の契約に含まれていたトレード拒否条項を破棄してまで、ガーネットはウルブズへの復帰を決断。恩師サウンダーズとの関係なくして、このトレードは実現しなかっただろう。1995年にミネソタでのキャリアを共にスタートさせた2人は、チームでタイトルこそ獲得できなかったが、ファンがティンバーウルブズの歴史について語るとき、真っ先に浮かぶ2人のはずだ。

ガーネットの復帰会見で、サウンダーズは、「彼は本当に幸せそうだ」と語り、教え子の復帰を喜んだ。

「見ればわかる。チームのスタッフを見るなり、彼は興奮を隠せなかった。チームに戻って来られて彼は興奮しているんだ。そして、私にとっては、それが何よりも重要なことだった」。

ガーネットは、「トレード期限日の前夜、その2日前から満足に寝られなかった」と、復帰会見で話した。

「シーズン中の変化は個人的には好まない。何かを変えるにしてもオフシーズンにする。子供の学校のこともあるし、家族もいる。だから、(シーズン中の移籍は)自分が好むものではなかったんだ」。

ターゲット・センターでの復帰戦は、あまりにも美しいものだった。チケットがソールドアウトしたワシントン・ウィザーズ戦で、ガーネットは5得点、8リバウンド、2ブロック、2アシスト、1スティールをあげ、97-77での快勝に貢献した。

すでに1試合30分以上プレイできないことは、ガーネット本人が理解していた。だが、ガーネットにとっては、チームの将来を担うラビーン、ウィギンズ、ゴーギー・ジェン、この1年後に入団することになるカール・アンソニー・タウンズにとっての師、そして精神的な拠り所になる機会でもあった。

ベンチから檄を飛ばそうが、練習中に選手をコート外に引きずり出そうが、ガーネットの目標は、若手をレベルアップさせることだった。ウルブズに復帰してからの2年間、ガーネットはまさに若手の指南役を勤め上げた。

球団のレジェンドのガーネットと、未来のフランチャイズプレイヤーのタウンズは、奇妙な縁で繋がっている。ガーネットがNBAでのキャリアをスタートさせた1995年は、奇しくもタウンズがこの世に生を授かった年でもある。昨年、病に倒れた故サウンダーズの遺産と同様に、過去から受け継いだものは、生き続ける。

ガーネットは常に感情、情熱、エネルギーを注ぎ、努力を惜しまず、チームのために尽くし続けた選手だ。コート上で求められる要素を全て満たす選手だったガーネットは、ウルブズ復帰後、以前と同様のパフォーマンスは見せられなかったかもしれない。それでも彼は、時折ではあったが、良い意味で期待を裏切ってくれた。

そして今、ガーネットのキャリアを振り返ってみると、彼のプレイを見ることができて幸運だったと思っているファンが大半ではないだろうか。それと同時に、ビッグチケットのショーが終わりを告げた寂しさ、悲しさも共存している。

だが、敬意と共に称えたい。

「素晴らしいキャリアをありがとう、KG」、と。

原文:THE FINAL SALUTE FOR THE BIG TICKET by Kyle Ratke/Timberwolves.com


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NBA日本公式サイト『NBA Japan』編集スタッフ