NBA

殿堂入りするスティーブ・ナッシュが辿った成功までの道のり

Author Photo
Steve Nash

『SI.com』のリー・ジェンキンス記者は、以前1996年のNBAドラフト当日の様子を、こう伝えた。

フェニックス・サンズオーナーのジェリー・コランジェロは、スティーブ・ナッシュについて、当時ドン・ネルソンに「彼は良い選手か?」と尋ねた。コランジェロも、当時サンズのアシスタントコーチだったダニー・エインジも、直感でナッシュが優れた才能の持ち主であることを感じ取っていた。そしてネルソンは「もしスティーブが成功できなかったら、私のポジションは君のものだ」と答えた。

スティーブ・ナッシュは、NBAで活躍し、引退後にはネイスミス・バスケットボール・ホール・オブ・フェイム(以下、殿堂)に選出されたが、どちらの成功に繋がる道も、一筋縄ではいかないものだった。

カナダで育ったナッシュは、幼いころサッカーをプレイし、それからバスケットボールに出会った。彼が育ったブリティッシュコロンビア州のビクトリアは、バスケットボールが盛んな土地ではなかった。手元に届いた奨学金のオファーは一つのみで、ナッシュは「奨学金のオファーは一校からしかなかった。自分の街からNBAプレイヤーになった選手もいなかったしね」と語った。

人生の岐路に立ったナッシュにアメリカでのプレイを進めたのは、当時サイモンフレーザー大学で指導していたジェイ・トリアーノ(元サンズHC)だった。

トリアーノは「彼を勧誘しに行ったが、私のためにプレイするのではなく、もっと上のレベルでプレイすることを目標にするように伝えた」と、当時を振り返る。

ナッシュを勧誘したアメリカの大学は、サンタクララ大のみだった。トリアーノはナッシュの獲得を希望したが、サンタクララ大に進学する方が彼のためになるとわかっていた。ナッシュは大学1年のシーズンに、サンタクララ大を5年ぶりとなるNCAAトーナメントに導き、ファーストラウンドで2位シードだったアリゾナ大学に勝利するアップセットをやってのけた。

それから4年後、ナッシュはNBAドラフト全体15位でサンズから指名されたものの、当時のサンズにはオールスターのケビン・ジョンソンとジェイソン・キッド、プロ4年目のサム・キャセールが所属したため、ナッシュには十分な出場機会は与えられなかった。

選手としての評価は高かったものの、サンズはPGを整理するため、3選手、ドラフト1巡目指名権と交換でナッシュをダラス・マーベリックスにトレードした。

ダーク・ノビツキーとの共闘は話題を集めたが、移籍後の数シーズンはプラン通りに進まなかった。マブスでの2シーズンで平均8.3得点、5.1アシストという成績を残したナッシュは、2001-02シーズンに才能を開花させ、同年に平均17.9得点、7.7アシストを記録し、キャリア初のオールスターに選出された。

ノビツキーとのデュオが機能し始めた矢先に30歳になったナッシュは契約を満了し、マブスは再契約を結ばなかった。

当時は選手の全盛期が20代後半と言われていた時代で、ナッシュはすでにその年齢を越えていた。だが、それまでにオールスターに2回選出されていたナッシュは、腰を据えてプレイできる環境を探していた。

ナッシュに声をかけたのは、当時NBA3年目のシーズンを迎えようとしていたアマレ・スタウダマイアーだった。スタウダマイアーは、ナッシュにこう伝えたという。

「自分にとって必要な存在だから、うちに来てもらいたい。僕が生徒になるから、あなたには先生になってもらいたい。フェニックスに来てくれたら、このリーグは自分たちのものだ」。

スタウダマイアーの誘いに応じてサンズへの復帰を決めたナッシュは、その後のNBAに大きな影響を与えることになる。

2003-04シーズンはわずか29勝に終わったサンズを変えたのは、ナッシュだった。2004-05シーズン開幕戦でアトランタ・ホークスと対戦したサンズは、ナッシュの活躍により30点差(112-82)で完勝。サンズは、前年から33勝も上乗せし、同年のレギュラーシーズンでリーグ最多勝、球団記録に並ぶ62勝20敗を記録した。

ナッシュが舵を取った同年のサンズは、速攻を主体とするオフェンスを展開し、過去10年で最高となる1試合平均100.4得点を記録。31歳になっていたナッシュは平均15.5得点、リーグ最多の11.5アシストをあげ、シーズンMVPに輝いた。

翌シーズンも平均18.8得点、2年連続リーグ1位の10.5アシストの活躍を見せ、ナッシュは2年続けてシーズンMVPを受賞。サンズはスタウダマイアーが負傷離脱し、ジョー・ジョンソン、クエンティン・リチャードソンもトレードしてしまったが、ウェスタン・カンファレンス2位の54勝28敗という戦績を残した。

ナッシュは、サンズの看板選手だけではなく、NBAを代表する選手に成長した。

アシスト王に5回輝き、通算アシスト数でもジョン・ストックトン、元チームメイトのキッドに次いで歴代3位となる1万335という数字を残した。

シーズンMVP受賞2回、オールNBAチーム選出7回、オールスター選出8回を誇るナッシュは、2005-06シーズンにトップ選手の象徴でもある“50-40-90クラブ”(フィールドゴール成功率50%、3ポイントショット成功率40%、フリースロー成功率90%)入りを果たし、引退するまでに”50-40-90”を5回成し遂げた。

キャリア18年で平均14.3得点、8.5アシスト、FG成功率49%、3P成功率42.8%、フリースロー成功率90.4%をマーク。フリースロー成功率は、NBA歴代1位の数字だ。

サンズ時代にナッシュが率いたハイスコアリングオフェンスは、現代のNBAでゴールデンステイト・ウォリアーズやヒューストン・ロケッツが受け継いでいる。ハイペース、3P、ハイスコアリングは、ナッシュがリーグにもたらしたものだ。

奨学金のオファーが一つしか届かなかった選手が、NBA史に残る最もダイナミックで、革新的な選手の一人にまで成長した。遅咲きながらも、辛抱強く、時間をかけて磨いたナッシュの技術は、感動的という以外に形容する方法がない。

バスケットボール殿堂入りを果たすナッシュは、サンズファンに最後のメッセージを届け、その輝かしいNBAキャリアを締めくくっている。

「自分たちがプレイした時期に、フェニックス・サンズのファンに優勝をもたらせなかったことを考えるとつらい。たしかに、僕たちは運に見放されたときもあった。でも、過去を振り返ると、こう思ってしまう自分がいる。『あのとき、あと1本ショットを決められていたら』、『あのとき、ターンオーバーを記録していなかったら』、『あのとき、もっと良いパスを選択できていたら』と。それでも、僕は後悔していない。アリーナは常に満員のファンで埋め尽くされ、揺れていた。僕の人生に残る瞬間だった。フェニックスに感謝しています」。

原文:Steve Nash: The Unlikely Journey of a Two-Time MVP by Cody Cunningham/Suns.com(抄訳)


今なら1か月間無料で見放題! スポーツ観るならDAZN!!

著者
NBA Japan Photo

NBA日本公式サイト『NBA Japan』編集スタッフ