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[丹羽政善コラム第57回]ドリュー・ホリデー――家族の危機を乗り越え、著しく成長したペリカンズの司令塔

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意地を見せ、追いすがるポートランド・トレイルブレイザーズを振り切って、ニューオーリンズ・ペリカンズはプレイオフ1回戦でスウィープ勝ちを決めた。

その第4戦では、アンソニー・デイビスが47点をマークしたが、ドリュー・ホリデーも41点をあげ、ブレイザーズに傾きかけた流れを何度も引き戻した。

それ以上に目を見張ったのが、彼のディフェンスだ。実績、格でホリデーを上回るデイミアン・リラードを主にマークしたが、1試合平均得点26.9点(レギュラーシーズン)を誇るリラードに仕事をさせず、4試合通じて、20点を許したのが一度だけ。フィールドゴール成功率を35.2%に抑え、あとの3回は、いずれも20点以下に抑えた。

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長く、デイビスの陰に隠れ、デマーカス・カズンズが来てからは、さらに陰が薄くなった。しかし1月終わり、カズンズが左足アキレス腱を断裂して今季絶望となると、今季の開幕前、5年総額1億2600万ドルで再契約をしたホリデーに対する期待が高まる。

それに応えられるかどうか。それは彼がこのまま、“好選手”で終わるか、スーパースターの仲間入りを果たすのかが、同時に問われていた。

果たして、どうだったかといえば、1回戦では、攻守に渡ってキーパーソンとなり、チームのシリーズ突破に大きく貢献したのだった。

そこで透けたのは、彼の成長、覚悟、そして安住の中で生まれていた甘えとの決別だった。

恵まれた生い立ち、初めての試練。それを乗り越え、今に至る経緯をたどる。

バスケットボール一家に育つ

2009年6月のNBAドラフトでフィラデルフィア・76ersから1巡目指名(全体17番目)されたドリュー・ホリデーは、知られるようにバスケットボール一家に育った。

一つ年上の兄は、シカゴ・ブルズのジャスティン・ホリデー。ワシントン大、ベルギー、Dリーグ(現Gリーグ)を経てNBAデビューしたものの、なかなか結果を残せず、Dリーグと行ったり来たり。しかし今季は、先発出場試合数、平均得点など、軒並みキャリハイをマークし、スターターに定着した。

ドリューと同じくUCLAに進学した末っ子のアーロン・ホリデーは、大学3年生だった昨季、1試合平均20.3点を記録し、NBA入りを決意。6月のドラフトでは、1巡目後半か2巡目前半での指名が予想されている。

妹のローレン・ホリデーもUCLAでバスケット選手として活躍していた時期があり、高校時代にバスケットをしていた選手が、奨学金をもらって大学に進学できる確率は、男子が3.4%、女子が3.8%(いずれもNCAA調べ)というなか、4人揃って親孝行をした。

ちなみに、大学でバスケットをしていた選手がNBAに行ける確率は1.2%(NCAA調べ)だが、兄弟3人揃ってとなると、これまで4例しかない奇跡的な数字だ。

学生時代は音楽にも勤しむ

さて、そんな4人の子供たちは、大学までバスケットをしていた両親の下に生まれた。ともにアリゾナ州立大学でバスケットをしているときに知り合い、その後、結婚したのだという。

ただ、4人の子供たちは、いずれも幼い頃から英才教育を受けたわけではない。むしろなんでも積極的にやらせた。親の方針は、興味を持ったことに「NOと言わない」。そして、「決めつけない」。ドリューも、むしろ最初に興味を持ったのは音楽だった。

学校は、母親が働いていた関係で、ハリウッドに近いキャンベル・ホールという幼稚園から高校までエスカレーター式のプライベートスクールへ通ったが、その学校は音楽の教育に力を入れており、ドリューも「ドラムを得意としていた」と振り返る。そして本人曰く、「高校のときにはジャズバンドもやっていた」そうだ。

バスケットも並行して熱中したが、「子供の頃は、ピアノ教室にも通っていた」というから、彼らは将来の選択肢の多い、比較的、裕福な家庭に育ったと言えるのかもしれない。ハングリーな環境で育った選手が多いNBAの中では、異例といえる。

しかしながら、徐々にバスケット選手としての才能が、隠せなくなる。ニューオーリンズの地元紙に父ショーンが、こんな話をしていた。

「ドリューは2歳のとき、ドリブルができた。しかも右でも、左でも。だからといって、将来、バスケットの選手になれるとは考えもしなかったが、ひょっとしたらと考えるようになって、プロを目指せるような環境を整えようと考えた」。

兄ジャスティンとともに腕を磨く

ジャスティンとドリューは高校のとき、AAU(アマチュア体育連合)のリーグでは、デマー・デローザン(トロント・ラプターズ)、マルコム・リー(元ドイツリーグ)、ブランドン・ジェニングス(ミルウォーキー・バックス)ら、将来のNBA選手らとしのぎを削ったというから、そのあたりは、アメリカのバスケット事情をよく知る両親が、お膳立てをしたのかもしれない。

何より、ドリューには兄がいた。

兄弟に奨学金で大学へ行けるようなレベル、あるいは、プロレベルの選手がいる場合、互いに良い影響がある例は、少なくない。3月のコラムで紹介したゴラン・ドラギッチ(マイアミ・ヒート)もそう。先月のC.J.・マッカラム(ブレイザーズ)もそうだ。

Jrue Holiday Pelicans
UCLAでコンビを組んだダレン・コリソンとは、2009年NBAドラフトでともに1巡目指名を受けてNBA入りした Photo by Getty Images Sport

ドリューの場合、兄のジャスティンとは1歳しか違わず、同レベル。物心ついた頃から、1対1で競い合った。父親は、「そうして互いに、スキルを磨き合い、闘争心を身につけていったのかもしれない」とも話していた。時々、互いに熱くなることもあったようだが、そこでも「NO」とは言わず、解決方法は彼ら自身に考えさせたそうだ。

2005年、キャンベル・ホール高校は、32勝0敗というパーフェクトシーズンを送り、カリフォルニア州のチャンピオンに。このときもちろん、ジャスティンとドリューの兄弟コンビが、その原動力となった。

大学は家から近い名門UCLAへ

そうなると必然、大学進学をめぐって、リクルートが激しくなっていく。

ワシントン大進学を決めた兄に対し、ドリューの下には、UCLAを含むパック10地区(現パック12地区)の全校、ノースカロライナ大、テキサス大、コネティカット大などからオファーが届いた。

しかし彼は、家から近いという理由で、UCLAを選択する。「本当は、ノースカロライナ大に行きたかった」というものの、「ロサンゼルスから直行便がないから」というのが、その理由だったという。

その頃になってようやくドリューは、自分の才能に気づく。「高校4年になって初めて、NBAに行けるのかなって」。

各大学のスカウトは、彼を高く評価した。当時はすでに、NBAの規定で高校から直接NBAに行くことはできなくなっていたが、「以前のルールなら(高卒直後に)ドラフトされただろうと言われ、NBAを意識するようになった」そうである。

彼が高校4年のとき、UCLAにはケビン・ラブ(クリーブランド・キャバリアーズ)、ラッセル・ウェストブルック(オクラホマシティ・サンダー)らがおり、チームはNCAAトーナメントでファイナル4に進出した。その2008年のファイナル4では、デリック・ローズ(ミネソタ・ティンバーウルブズ)率いるメンフィス大に敗れていた。

ラブらはその年のNBAドラフトで指名されたため、ホリデーは一緒にプレイすることはなかったが、そうしてNBAへのレールが敷かれていることもまた、最終的にUCLAを選ぶ一因になったようだ。

運命の出会い

さて、そうしてUCLAに進学し、学生生活を送っていたある日のこと。女子のバスケットの試合を見に行ったのがきっかけで、運命の女性と出会う。

知られたエピソードだが、ドリューが自分の席に着こうとすると、子供からチームメイトのダレン・コリソン(インディアナ・ペイサーズ)と間違えられ、「サインをもらえますか?」と言われたという。人違いだよ、といいながら席に座ると、後ろから、こう声をかけられた。

「君のほうが、コリソンより、かっこいいよ」。

それがローレン・チェニーさん。ファーストネームが妹と同じだが、当時、UCLAの1学年上で、サッカーの米国代表選手だった。しかも、超がつくサッカー界のスーパースター(2015年のワールドカップでは、日本との決勝戦でゴールを決めている)。

そのとき、ドリューがどこまでそのことを理解していたかは分からないが、それをきっかけに連絡先を交換すると、2009年のドラフトで指名されたとき、お祝いの連絡があった。2人は、間もなく付き合い始め、2013年の夏に結婚。2年後、ローレンさんがサッカーを引退すると、2016年に入って、子供ができた。ドリューは歓喜した。

Jrue Holiday Pelicans
76ers時代の2013年にはオールスター出場も経験 Photo by NBA Entertainment

ところが、である。妊娠中期に入って、状況が一変する。ローレンさんが頭痛を訴えたことから病院で精密検査をすると、脳腫瘍が見つかった。

そんな状態で子供を産めるのか? そもそも彼女は大丈夫なのか?

「これから、どんなことが起こるのか、想像もできなかった。ストレスだった」と振り返るドリュー。

「祈るしかなかった」。

夫人の病気に向き合いながら試練を乗り越える

医師らと何度も話し合いを重ねながら、まずは出産を優先。体力の回復を待ち、ローレンさんの手術を行なうことになった。

9月下旬、元気に娘が生まれると、10月、ローレンさんの手術も成功した。ドリューはトレーニングキャンプに参加できなくなったが、開幕から12試合を欠場しただけでチームに復帰できたのは、ある意味、奇跡だった。

ただ、そのシーズン――つまり昨季は、バスケットに集中できない日もあった。ローレンさんはまだ、必死のリハビリを続けており、「なによりも家族を優先する」という彼は、切り替えができないでいた。それは、彼の長所である一方で、プロアスリートとしては欠点でもなかったか。

しかし今季は違う。娘は、試合を見に来るまでに成長した。ローレンさんも普通の生活を送れるまでになった。霧が晴れた。

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今季は1試合平均19.0得点、6.0アシスト、4.5リバウンドと自己最高と言っていい成績をマーク Photo by NBA Entertainment

一つ、また一つ、家族で乗り越えた試練。ドリューは確実に強くなった。スーパースターになるには欠けていた責任感、自覚も以前とは比較にならない。それが今、プレイに滲み出ている。

戸惑ったのはブレイザーズだ。最後まで、昨季までの残像とのギャップを埋めきれず、答えを導くことができなかったのかもしれない。

文:丹羽政善

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