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[丹羽政善コラム第55回]ゴラン・ドラギッチ――スロベニアの英雄が手にした最高の栄誉

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NBA10年目――31歳でゴラン・ドラギッチは初めてオールスターゲームに選ばれた。司令塔としてスコアラーとして、マイアミ・ヒートを支えている実績が評価された。

昨年9月に母国スロベニアをFIBA欧州選手権(ユーロバスケット)初優勝に導き、自らもMVPを獲得。NBA入りした当初はなかなか出場チャンスをもらえず、自信を喪失。泣きながら父親に電話をかけたこともあったそうだが、一つ一つ課題を克服し、ここまで上り詰めた。

目標としてきたスティーブ・ナッシュの背中はまだ遠い。しかし今、スロベニアからやってきた青年は、NBAに確かな足跡を残しつつある。

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Goran Dragic NBA Suns Steve Nash
2008年にスティーブ・ナッシュのいるサンズに入団 Photo by NBAE

故郷リュブリャナの象徴でもあるドラゴンの異名を持つ

ニックネームは“ドラゴン”。NBA入りした2008年、サンズのチームメイトらは、“Dragic”がうまく発音できず、ドラギカ、ドラジックなど、様々な呼び方をしていたという。すると、当時すでに2度のMVPを獲得し、チームの柱だったナッシュから、こう提案された。

「ドラゴンって呼んでもいいか?」

ドラギッチに異論はなかった。奇しくも、彼が生まれ育ったスロベニアの首都リュブリャナのシンボルがドラゴンだったのだ。市旗にも市章にも、しっかり描かれている。

「ナッシュは、そのことを知らなかったと思う」とドラギッチ。あまりの偶然に運命を感じ、昨年の夏に絵本を出版したとき、「Goran — Legend of the Dragon」(ゴラン - ドラゴンの伝説)というタイトルを付けたほどだった。

Goran Dragic Slovenia Eurobasket
2017年ユーロバスケットでスロベニア代表を初優勝に導く Photo by AFP

そのドラギッチは、中世の古い街並みが残るリュブリャナで、セルビア人の父とスロベニア人の母親の下に生まれた。子供のころは絵を描くことが得意で、運動神経も抜群。野球、サッカー、バスケット、卓球などをしていたが、一番熱中していたサッカーは、試合中に骨折の大ケガを負ったことで断念した。そのとき「バスケットボール選手だった母親から、バスケットに専念することを勧められた」のだという。

ただ、それも運命なのかもしれない。 

幼いころから彼は母親の影響もあり、夜中の3時頃に起きてNBAの中継を見ることがあった。当時NBAでは、もともとは同じ連邦国家に属していたセルビア出身のブラディ・ディバッツ(現サクラメント・キングス・ゼネラルマネージャー)やクロアチア出身のドラゼン・ペトロビッチ(1993年に交通事故死)らが活躍しており、彼らに憧れるようになっていた。

弟ゾランと腕を磨いた幼少時代

とはいえ、バスケットボールを始めたころの彼は、背も低く、線の細い少年だった。

地元に10歳年上で、のちにミネソタ・ティンバーウルブズなどNBAで12シーズン活躍するラショー・ネストロビッチがいたが、ボールボーイのようなことをしながら彼の練習を手伝っているとき、地元クラブのヘッドコーチが、「ドラギッチはいつか、NBAでプレイするようになる」と話すと、ネストロビッチは笑ったそうだ。今年のオールスター前、米スポーツ有線局『ESPN』の電子版に、そのエピソードが紹介されていたが、ドラギッチ自身も認めていた。

「スピードはあったけど、ガリガリだったし、背も低かった。シュートも下手だったから」。

そんなドラギッチが急成長を遂げた裏には、3歳年下の弟ゾラン・ドラギッチの存在もあったのではないか。のちに、サンズでチームメイトにもなる弟とは、子供のころから1対1で腕を競い合った。

Goran Zoran Dragic Heat
2014-15シーズン途中に弟ゾラン(左)とともに兄弟揃ってサンズからヒートへ移籍 Photo by NBAE

2人とも負けず嫌いな性格で、ヒートアップすると当たりが激しくなり、父親が「ケガをする前にやめろ!」と割って入るほどだったという。そんな日がしかし、暗くなるまで毎日のように続き、家に戻ると、今度は卓球で勝負を始めるという具合だった。勝負へのこだわりはそれだけではない。父親が、自動車教習所の教官だったことから、2人とも車に興味を持ち、カートでも争うことになる。

ただ、そうして一事が万事、激しく争う中で図らずも競争心が培われ、中でもバスケットは特別なスポーツとなっていく。切磋琢磨する中で、結果的に互いが互いを支え合い、やがて2人揃って、NBA入りの夢を掴むのである。

余談ながら、2人ともレフティで、祖父と母親も左利きだったとのこと。また、ある時期、スロベニアのナショナルチームは、12人中8人がレフティだったそうだ。

2008年ドラフト組のなかでも好成績を残す

さて、そんな経緯をへてドラギッチが初めてプロ契約を結んだのは、2003年、17歳のとき。スロベニアの2部リーグだったが、2004年と2005年はU20のナショナルチームに選出され、2006年にはシニアチームに昇格。日本で行なわれたFIBA世界選手権(現FIBAバスケットボール・ワールドカップ)にも出場している。

並行してスペインのチームなどでプレイ。その後、2008年のNBAドラフト2巡目(全体45番目)でスパーズに指名され、直後にサンズにトレードされた。あの年、ポイントガードでは、デリック・ローズに次ぐ評価だったにもかかわらず、ここまで指名順位が下がったのは、スペインのチームとの契約が残っており、どのチームも契約の買い取り交渉が難航することを恐れたからだが、以来、評判通りの結果を残している。

2008年ドラフト組の中では、出場試合数5位、得点4位、アシスト2位、出場時間数6位(3月17日現在)。45位指名の選手とは思えない数字をドラギッチは残し、ついに今年、オールスターにも選ばれたのである。

我慢を重ねて掴んだチャンス

そんな彼が胸に刻んでいるのは、「我慢」という言葉だ。

サンズに入った頃、なかなか出場機会がなかった。55試合に出場したが、平均出場時間は13.2分。父親に弱音を吐いたのはこのころだが、そんなとき、ナッシュからこんなアドバイスをもらったという。

「我慢しろ」。

どういうことか。ナッシュはこう説明したそうだ。

「出場できない難しさはよく分かる。でも、我慢をして、一生懸命練習しておけ」。

いつか、チャンスがやってくる。そのために万全の準備をしろ――。

Goran Dragic Heat NBA All-Star 2018
今季、NBAオールスターゲームに初出場 Photo by NBAE

結局、3年目にヒューストン・ロケッツにトレードされ、4年目が終わると、今度はフリーエージェントとなってサンズと契約。すでにナッシュは去り、ドラギッチにチャンスが巡ってきた。このとき、ナッシュのアドバイスを守って準備を怠らなかった彼は、それを逃すことはなかった。

そうした我慢は、昨年夏、別の形でも結実している。

冒頭で触れたように、スロベニアを欧州選手権初優勝に導いた。そこで彼に与えられた勲章は、それだけではなかった。試合後、彼はアイドルだったペトロビッチの母親から、ペトロビッチのネッツ時代のジャージーを託されたのだ。

そのとき、優勝の際には流れなかった涙が、彼の頬を伝った。

文:丹羽政善

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