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[丹羽政善コラム第54回]ドノバン・ミッチェル――ジャズ再建を担う新人王候補

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フリーエージェントでゴードン・ヘイワード(現ボストン・セルティックス)を手放したユタ・ジャズは、再建を余儀なくされると予想されたが、今季もプレイオフ出場を射程圏に捉えている。

原動力は、昨年のドラフトで1巡目指名したドノバン・ミッチェルのセンセーショナルな活躍だ。

1試合平均19.5点(現地2月12日時点)を叩き出し、オフェンスの核となっている。12月1日のニューオーリンズ・ペリカンズ戦では41点をあげ、現役選手の中では1試合40得点をマークした7人目の選手ともなった。

そんな彼のドラフト前の評価は、決して高くなかった。指名されるのは、1巡目後半との見方もあったほどだ。

しかし、彼のポテンシャルを信じたジャズは、1巡目13位の指名権を持っていたデンバー・ナゲッツにトレードを持ちかけ、2015年のドラフトで1巡目指名(全体12番目)したトレイ・ライルズと、2017年のドラフト1巡目指名権(24位。タイラー・ライドンを指名)をセットでオファー。このトレードが成立すると、再建の柱を得た。

実のところ、ミッチェル自身も自分に自信が持てず、直前まで大学へ戻ることを考えていたという。だが、ドラフト前にクリス・ポール(当時ロサンゼルス・クリッパーズ、現ヒューストン・ロケッツ)らとワークアウトを行なった際に背中を押され、NBA入りを決断した。

ポールらの目に狂いはなかった。

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Donovan Mitchell Jazz

NBA選手からの後押しでドラフトにエントリー

昨年3月19日、ルイビル大は、NCAAトーナメント(全米大学バスケットボール選手権)の2回戦でミシガン大に敗れた。試合後、メディアに囲まれて去就を尋ねられたドノバン・ミッチェルは、「来年も大学に戻ってくる」と話したものの、迷っていた。

夢に近づいている実感はある。しかし、確信がない。その3日後、NBAドラフトに登録することを発表したものの、代理人を雇うことをためらった。NCAAのルールで、代理人を雇った時点で復学はできなくなる。4月になって実家に戻るとき、寮の部屋には服などの私物を残したままだった。

覚悟を決めたのは、ドラフト直前のこと。

ロサンゼルスで、クリス・ポール、ポール・ジョージ(当時インディアナ・ペイサーズ、現オクラホマシティ・サンダー)らとワークアウトを行なう機会を得た。そこで悩みを打ち明けると、NBAのスーパースターが親身になって相談に乗ってくれた。

そのとき彼らは、「ドラフトされることの長所と欠点。大学に残ることの長所と欠点をそれぞれ列挙してくれた」とミッチェルは言う。結論ありきではなく、両案を検討。結果的に、「NBAに行くべき」というアドバイスを得たのだという。

『ブリーチャーリポート』(2017年12月21日)の取材にもこう答えていた。

「ポールとCP(クリス・ポール)が、お前はいいものを持っていると言ってくれた。でも僕は、“たぶん……”としか言えなかった。そしたら二人が、僕のプレイについて細かく分析してくれた。そしたら、僕にも出来るかも、という気になった」。

Donovan Mitchell Jazz

6月22日、NBAドラフト。このときもしかし、ミッチェルに明確な自信があったわけではない。他のドラフト候補選手らと待機するグリーンルームには、家族しか呼ばなかった。もしも上位で呼ばれなかったら……という不安が頭をよぎった。

8位、9位、10位と、次々に指名順位が下がっていく。

「やっぱり、ダメなのか…?」。

13位、ナゲッツ――。

このときミッチェルは、裏で何が起きているのか、知る由もなかった。

「デンバーは、ワークアウトに呼ばれなかったから、指名されないだろう」。

しかし、ミッチェルが12位までに指名されなかった段階で、ジャズはナゲッツに連絡を入れた。

「ミッチェルを指名してくれ」。

交換要因は、トレイ・ライルズとジャズが持つ1巡目24位の指名権。実のところ、ナゲッツがそれまで、何度かジャズにライルズのトレードを打診してきたのだという。13位で絶対指名したい、という選手がいないこともジャズは掴んでいた。トレードは指名の直前に成立。ナゲッツからまさかの指名を受け、首をかしげながら、壇上で待つアダム・シルバーNBAコミッショナーのところへ向かったミッチェルは、階段を上っているときにそれを知ったという。

そのときのことを振り返り、「顔が自然にほころんだ」とミッチェル。

「ジャズはワークアウトで高い評価をしてくれたから」。

高校時代の低評価を覆す

さて、ミッチェルがドラフト直前まで、自分の力に確信を持てなかったことはすでに触れたが、彼のバスケット人生をたどると、ずっと、どこかで引け目を感じていたよう。

野球選手だった父親は、元マイナーリーガー。1992年のドラフトでヒューストン・アストロズから指名された。しかし、メジャーリーグでプレイする機会はなく、1998年限りで、ユニフォームを脱いでいる。

1996年に生まれたミッチェルに、父親が野球をしていた記憶はない。ただ、父親がメッツで働き始めると、常に大リーグという世界が身近にあり、デイビッド・ライト(メッツ)、ペドロ・マルチネス(メッツなど)、ホセ・レイエス(メッツ)といったメッツのスター選手との交流を通して、大リーガーに憧れるようになった。

その野球選手としての才能は、本人が、「あったと思う」と自信ありげに語るほど。一方で、バスケットにそこまでの自信はなかった。彼は実際、投手、遊撃手の二刀流選手として名を馳せ、大学には、野球で奨学金をもらって進学するつもりだったのだという。

ところが、高校2年の春、試合で大怪我をしてしまう。

ショートを守っていて、フライを追いかけていると、同時にその打球を追っていた捕手と激突。捕手は顎の骨を骨折し、ミッチェルは、左の手首を骨折した。夏は、AAU(アマチュア体育連合)のチームでバスケットをする予定だったが、それも断念せざるを得なかった。

ただ、そのことは彼にとって転機となる。

Donovan Mitchell Jazz

ミッチェルをバスケット選手としてリクルートしようとしていたプロビデンス大のアシスタントコーチから、ナゲッツのウィル・バートンらを輩出したバスケットの名門校ブリュースター・アカデミー高校への転校を勧められ、それを決断したとき、バスケットに専念することもまた、決意した。

もっとも、出遅れ感は否めない。高校3年生のシーズン前、複数のメディアが高校生のポジション別ランキングを発表したが、米有線放送局『ESPN』によるポイントガード(2015年卒業組)としての評価は、43位だった。

「あれはショックだった」とミッチェル。

ただ、その屈辱がなかったら、今の彼が存在しているかどうか。ソルトレイクシティの地元紙にこんなコメントがあった。

「高校生にとって、ランキングはすべてなんだ。でも、俺よりも下手な奴が、上にいた。俺は、ランキング上位に入れなかった。それがうまくなりたいというモチベーションになった」。

3年生のシーズンが終わったときには、トップ30に名を連ねるようになり、大学からの誘いが届き始めた。

Donovan Mitchell Jazz

ミッチェルは、熱心だったインディアナ大、ジョージタウン大、ルイビル大などの中から、デューク大、ノースカロライナ大など、競合がひしめくACC(アトランティック・コースト・カンファレンス)でプレイしたい、という理由から、ルイビル大を選択する。そこでは、名将リック・ピティーノHCの下で成長を遂げ、2年目が終わるときにはもう、ドラフト1巡目指名候補に躍り出ている。

それでもまだ、二人のポールに背中を押されるまで、躊躇していたわけだが、そんな選手が今や、ジャズの再建を担い、ベン・シモンズ(フィラデルフィア・76ers)と熾烈な新人王争いを繰り広げている。

さすがにもう、それなりの手応えを得ているのではないだろうか――。

ところで彼は、取材に対して、常に協力的だとの評判がある。

幼い頃、大リーガーらが優しく接してくれた。彼らのプロフェッショナルな振る舞いをずっと見てきた。そして教師だった母親にはこう教えられた。

「あなたが接するようにしか、他人はあなたに接してくれない」。

彼の中には、その言葉が刻まれている。

文:丹羽政善

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