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[丹羽政善コラム第51回]ダーク・ノビツキー――ドイツ人コーチと歩んできた素晴らしきバスケットボール人生

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Dirk Nowitzki Mavericks

今季、ダーク・ノビツキー(ダラス・マーベリックス)はキャリア20年の節目を迎えた。単一チームで20年というのは、コービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ、1996-97〜2015-16シーズン)に肩を並べることになり、リーグ最長タイだ。

また、来季もプレイすれば、同期のビンス・カーター(サクラメント・キングス)とともに、ロバート・パリッシュ(ボストン・セルティックスなど)、ケビン・ウィリス(アトランタ・ホークスなど)、ケビン・ガーネット(ミネソタ・ティンバーウルブスなど)と並んで、NBA史上、最も長くプレイした選手の仲間入りを果たす。

1998年のドラフトで指名された当時(1巡目9位)は、線の細さやアメリカのバスケットを知らない、という点が不安視され、実際、1年目は適応に苦労。ノビツキー自身、「ドイツに帰ろうか……」と弱気にもなったこともあるそうだが、2年目になってポテンシャルを発揮すると、その後は将来の殿堂入りが確実視されるほどに成長した。

来年6月に40歳となるノビツキーの20年目のシーズンが始まった。

Dirk Nowitzki Mavericks

コーチであり第2の父親でもあるゲシュウィンドナー

ダーク・ノビツキーがNBA入りした1998-99シーズン、 マーベリックスには、A.C.・グリーン、セドリック・セバロス、ショーン・ブラッドリーといった選手がいた。

なんとも時代を感じさせるメンバーだが、以来、ドイツからやってきた7フッターは、オールスターゲームに13回も出場し、2006-07シーズンにはMVPを獲得。また、NBAファイナルには2度出場し、2010-11シーズンにはフランチャイズ史上初のファイナル制覇に貢献した。

なにより彼は、長く低迷していたチームをプレイオフの常連へと導いた点でも評価が高い。

そんな将来のマーベリックスを担うことになるノビツキーが、バスケットのキャリアを踏み出したのは13歳のとき。母親はかつて、バスケットのナショナルチームでプレイし、しかもスター選手だったという。その影響か、ノビツキーの4歳年上の姉は早くからバスケットを始め、やはり後にナショナルチームでプレイしている。

そんな環境で育ちながら、13歳でバスケットを始めたというのはやや遅いようにも映るが、ノビツキーは、父親がやはり、ナショナルチームの選手だったハンドボール、そしてテニスに夢中になり、母親と姉を見てきたからか、「バスケットは女の子のスポーツだと思っていた」そうである。

その背景には、ドイツにおけるバスケットの認知度の低さが透け、本人も何度かそんな話をしている。

「アメリカみたいにいろんなところにバスケットのゴールがあるわけじゃない。(人気の面では)サッカーにはかなわない。サッカーは、ボール一つあればどこでもできるけど、バスケットはそうはいかない」。

よって彼にとって、NBAでプレイすることは当時から夢ではあっても、身近とは言えず、15歳になってローカルのチームに所属し活躍を始めたものの、その後の道筋を描けないでいた。アメリカなら、ミドルスクールで頭角を現せれば、高校、大学、NBAへと自然にレールが敷かれるが、決してそうではなかった。

バスケットだけでなく人間としての素養も

そんなときにノビツキーの前に現れたのが、ホルガー・ゲシュウィンドナー(Holger Geschwindner)という、旧東ドイツ出身の元バスケット・オリンピック選手だ。1972年のミュンヘン五輪に出場し、キャプテンでもあった彼は、たまたまバスケットをしていたノビツキーを見て、素質の高さに驚いたのだという。

そのときの回想が、1998年6月15日付の『スポーツイラストレイテッド』に描かれている。

1994年のある日、15歳のノビツキーが、素晴らしいバスケットをしているのを見た。それを見て、誰にバスケットを教わっているのかと聞いたら、彼は、「誰にも」と答えた。

ならばと、私が仕事の合間に教えることにした。3週間後には、彼の両親に会い、この子のバスケットの将来をどう考えているかと聞いたが、明確なものはなかった。ならば、私に預けてみないか、と伝えた。

そのとき、ゲシュウィンドナーは、「5年計画を立てた」という。

彼はまず、ノビツキーにシュートとパスの基本を徹底的に教えた。ローカルチームでセンターだったノビツキーはそうした技術を習っていなかったのだ。そしてそのときから、「3ポイントシュートが打てる7フッターを意識した」そう。

「そんな選手は、NBAにいなかったから」。

基本的なテクニックそのものはアメリカ仕込み。かつて、米軍の兵士からバスケットを学んだゲシュウィンドナーは、それをノビツキーに伝えた。

また、82試合というNBAでの長いシーズンを見据え、スタミナを付けるためにノビツキーを3つのリーグに所属させ、年間150試合をプレイさせた。

さらには、最初のクリスマスにはサクソフォンをプレゼントし、オペラにも連れ出した。ゲシュウィンドナーはノビツキーにバスケットの技術だけではなく、人間としての素養をも身につけさせようとしたのだ。

そうして1年も経つと、ノビツキーは2部とはいえ、地元ビュルツブルクにあるプロチームに所属。その後、ドイツのジュニアチームに選ばれるようになり、ヨーロッパのプロチームから誘いが来るようにもなった。

Dirk Nowitzki Mavericks
2006年NBAファイナル第1戦前にノビツキーのシューティングに付き添うゲシュウィンドナー

ただ、ノビツキーの目標はあくまでもNBA。その夢に一歩近づいたのが1997年にドイツで行なわれた『NIKE HOOP HERO’S TOUR」だ。18歳のノビツキーは、マイケル・ジョーダン(シカゴ・ブルズなど)、チャールズ・バークリー(フェニックス・サンズなど)、スコッティ・ピッペン(シカゴ・ブルズなど)らとの親善試合に出場すると、バークリーの頭越しにダンクも決めた。すると試合後、バークリーが「もし、NBAに入りたいなら電話をくれ」と言ったーーという有名なエピソードも残る。

その頃を振り返って、ゲシュウィンドナーがこうコメントしている。

「NBAから声がかかるようになるまで5年をイメージしていたが、3年で電話がかかってくるようになった」。

ノビツキーのNBA入りを決定付けたのが、翌1998年に行なわれたジュニアの世界選抜と米国選抜が戦う『NIKE HOOP SUMMIT』か。

米国選抜のメンバーにはラシャード・ルイス(オーランド・マジックなど)、アル・ハリントン(インディアナ・ペーサーズなど)らが名を連ね、世界選抜にはノビツキーのほか、後にロケッツなどでプレイするルイス・スコラらが招待されていた。するとその試合でノビツキーは33点をマーク。2010年にエネス・カンター(ニックス)が34点を記録するまで、同大会の最多得点だった。

このときのプレイによってマーベリックスは、その年のドラフトで1巡目指名することを決断。ゲシュウィンドナーがマンツーマンでノビツキーを指導し始めて、わずか4年だった。

「彼がいなかったら僕はここにいない」

結局、ドラフト前の合意で、マーベリックスが1巡目全体6位でロバート・テイラーを指名すると、ミルウォーキー・バックスが1巡目全体9位でノビツキーを指名し、直後にフェニックス・サンズを絡めた三角トレードが成立している。マーベリックスはサンズから、スティーブ・ナッシュを獲得した。

一連のトレードは、当時アシスタントGM(ゼネラルマネージャー)だったドニー・ネルソンが仕掛けた。彼らとしては1巡目6位でそのままノビツキーを指名してもよかったが、9位の指名権を持っていたバックスがテイラーを狙っていた。ノビツキーは10位の指名権を持っていたセルティックスが指名する可能性があったが、それまでなら誰も獲りにいかない。逆にテイラーは7位か8位で指名される確率が高い。

そこでネルソンはバックスにトレードを持ちかけ、6位でテイラーを獲る代わりにバックスに9位でノビツキー、19位でパット・ギャリティを指名させ、そこで1対2のトレードを成立させた後、ギャリティをサンズに放出して、ナッシュを手に入れたのだ。

テイラーとギャリティがその後、パッとしないキャリアを送ったのとは対照的に、マーベリックスは将来のMVPを一挙に2人も獲得したのだから、ネルソンの手腕は見事だった。

話をノビツキーに戻すと、ゲシュウィンドナーとの関係はNBAに入っても続き、シーズン中は、何度かゲシュウィンドナーがアメリカを訪れ、プレイオフに入ると、帯同しながら必要なアドバイスを送った。また、オフには一緒にワークアウトを行ない、弱点の克服に努めたという。

そんなゲシュウィンドナーについてノビツキーは、2006年のファイナルでこう話している。

「もし、彼がいなかったら、僕はここにいない。彼はすべてを教えてくれた。シュートもそうだけど、コート以外のことでも、自分がどうすべきか教えてくれた。僕にとっては第2の父親だ」。

今年3月、ノビツキーはNBA通算3万得点を達成した。すると客席では、ゲシュウィンドナーが涙をぬぐった。

文:丹羽政善

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