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[丹羽政善コラム第48回]トリスタン・トンプソン――NBAファイナルのキーマン

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3季連続のマッチアップとなった今年のNBAファイナル。レブロン・ジェームズ、カイリー・アービング(ともにクリーブランド・キャバリアーズ)、ステフィン・カリー、ケビン・デュラント(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)らが注目され、彼らの活躍こそがシリーズを左右すると見られているが、案外、伏兵が重要な役割を果たす可能性もある。 

候補は少なくないが、注目したいのはトリスタン・トンプソン(キャブズ)。これまで、ジェームズ、アービング、ケビン・ラブの陰に隠れてきたが、ゴール下では非凡な才能をみせる。

決して30点を取るような選手ではない。ブザービーターを決めるような選手でもない。しかし、体を張り、目立たないプレイを黙々とこなす。昨年のファイナルでもゴール下を制した。

果たして、今年のファイナルではどんな働きをするのか。カギを握るトンプソンのNBA入りまでを辿り、彼を支えるものに触れる。


ビンス・カーターを見ながらトロントで育つ

かつて、レジー・エバンス(2002~15年)という選手がいた。トロント・ラプターズなどでプレイした彼の身長は 6フィート8インチ(約203cm)とゴール下に活躍の場を求める選手としては低いが、リバウンドだけで13シーズンもNBAを生き抜いた。

デビュー当時に聞いたことがある。どうしてここまで、日の当たらない仕事に徹することができるのか。点を取りたいと思わないのか。するとエバンスはこう答えた。

「そりゃあ、子供の頃はマイケル・ジョーダンになりたかったよ。でも、中学の頃に思ったんだ。俺、シュートが下手だなって(笑)。ジョーダンにはなれないって」。

エバンスは実際、フリースローさえまともに決められない。キャリアで決めた3ポイントシュートもわずか1本だった(通算11本試投)。だが、結果としてリバウンドという“専門職”を目指したことで道が開けた。

さて、90年代後半のこと。カナダのトロントでは多くの子どもたちが、ラプターズに入ったビンス・カーターに憧れ、バスケットに興味を持った。華麗なダンクの数々にトロント郊外の町で生まれ育ったトンプソンも熱狂した一人。かつてこんな話をしている。

「カーターがトロントに来るまで、バスケットにはさほど興味はなかった。でも、学校から戻ってきて、カーターがダンクをするハイライトシーンを見るのが好きだった」。

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もっとも、彼もシュートが上手かったわけではなく、クィックネスがあるわけでもなかったため、カーターになる夢は早々に諦めることになる。しかし、やはりビッグマンとしては6フィート9インチ(約206cm)とアンダーサイズながら、ゴール下に活路を見出していった。

両親はジャマイカの移民。その影響か、子供の頃はサッカーに夢中となったトンプソン。キーパーだったそうだ。

やがて、カーターの活躍に刺激され、そして中学に入って伸びた身長が卒業の頃には6フィート7インチ(約201cm)に達するとバスケットに専念するようになったが、彼は高校進学を前に決断を迫られる。

自ら情報を集めてカナダからアメリカの高校へ

地元にはバスケットの盛んな高校がなかった。その時点でNBAを見据えていた彼にしてみれば、物足りなかったのだ。そこで彼がアメリカ留学という決断に至るのは、彼が精神面でも早くから大人だったといわれる所以だが、両親に、「アメリカの高校にバスケット留学をしたい」と伝えたのは15歳になる前のことだったという。母親のこんなコメントが残る。

「あの子はすべて自分で調べて決断した。私たちに話したとき、すでにその準備ができていた」。

例えば、アメリカの名門高校のヘッドコーチから勧められて、ということならありうる。その場合、手続きからお金のことまで、すべて学校側が面倒を見る。一方でトンプソンは、本当に自分で情報を集めていたという。

Tristan Thompson Cavaliers
2011年のNBAドラフト全体4位指名を受け、同1位指名のカイリー・アービングとともにキャブズに入団

結局、1年目こそ地元の高校に進学したが、その年に2度ほどアメリカへ行き、高校を見学。そして2年生になるタイミングで、ダン・ハーリー(現ロードアイランド大ヘッドコーチ)という、1980年代後半から90年代前半にかけて、大学バスケット界のヒーローだったボビー・ハーリーの弟がHCを務めるニューアークのセント・ベネディクト・プレップスクールに転校した。トンプソンは、夢をかなえるための第一歩を自ら切り開いたのだ。

トンプソンの加入で、まず変わったのが高校側。その年、チームはいきなり全米トップとなり、翌年も開幕から19連勝を飾った。

当然、その化学変化をもたらしたトンプソンは、全米の強豪大学から注目される逸材となる。わずか1年ちょっとで、アメリカの高校へ行き、バスケットの強豪校から奨学金をもらって大学へ進学し、そこで実績を残してNBAに入るという、中学の時に描いたシナリオが一つひとつ、現実となっていった。

中学の頃に描いた夢をかなえる実行力

それでも、高校3年のとき、トンプソンは壁にぶつかる。20連勝をかけて、キャブズでチームメイトとなるアービングが率いるセント・パトリック高と対戦すると、62対88で惨敗を喫したのである。すると試合後、トンプソンとハーリーHCが言い争いとなり、トンプソンはバスケットボール部を退部させられた。学校も退学となった。状況次第では、そのキャリアに大きく影響を及ぼす状況に追い込まれた。

このことはただ、トンプソンをよく知る人にとっては意外と映ったのではないか。キャブズのチームメイトだったマシュー・デラベドーバ(現ミルウォーキー・バックス)も、こんな話をしたことがある。

「彼は、本当にいいやつなんだ。例えば、審判の判定に不満があるとする。『これは、文句を言いに行くな』と思うんだけど、彼は、その寸前で自分を止められるんだ」。

トンプソンは、どんな状況でも我を失うことはない。実際、後にハーリーHCは、「もう少し、別の対応の仕方があった」と話しており、必ずしもトンプソンだけに非があったわけではなく、むしろ、ハーリーHCの短気が大きな要因だったよう。幸運にもトンプソンが転校先に苦労しなかったのは、そうした背景が明らかだったからなのかもしれない。

結局トンプソンは多くの誘いの中からネバダ州のファインドレイ・プレップスクールを選ぶと、その高校も全米トップに導いた。その後、アメリカへ来た頃から勧誘に熱心だったテキサス大へ進学し、1年後、キャブズからドラフト1巡目指名(全体4位)を受け、NBA入り。すべてが中学の頃に思い描いた通りとなった。計画から達成まで、見事なまでの実行力である。

Tristan Thompson Cavaliers
体を張ったリバウンドでキャブズにチャンスをもたらす

ところで彼は、なぜ早くからプロ入りを意識したのか。

要因の一つは、小さな頃からてんかんの発作に襲われ、神経疾患に苦しめられている一番下の弟、アマリ君のことがあったよう。トンプソンは自分の知名度を利用して基金を作り、同じ障害に苦しむ子供たちのために活動をしている。自分がプロになることで資金を作り、さらに多くの資金を集めるには、自分が広告塔になる必要があった。

彼の母親が言っている。

「弟と、そして同じ病気で苦しむ子たちをなんとかしてやりたいという思いが、コートでいいプレイをするモチベーションになっているのでは」。

そのことこそ、率先して汚れ仕事を引き受ける原動力となっているのかもしれない。

文:丹羽政善

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