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[丹羽政善コラム第47回]マイク・コンリーーー玄人好みのフランチャイズプレイヤー

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今年のプレイオフでスパーズを苦しめたマイク・コンリー(メンフィス・グリズリーズ)は、意外にも、オールスターに選ばれたことがない。

各数字が飛び抜けているわけではない。そこが影響しているのかもしれないが、三段跳び金メダリストの父を持つコンリーの働きというのは、必ずしも数字に表れない。

月並みだが、玄人好み。

ただ、小さな頃から、誰かの影に隠れてきた。知る人ぞ知る――そこが彼の居場所でもあった。一方、必要ならば自分がチームを率いる一面も。今年のプレイオフがまさにそう。

過小評価されているとも言われてきたが、もはや、自分の力を目に見える形で証明する必要はない。リーグでも確固たる評価を築いた。


周りを生かしながら非凡な得点力も

2勝3敗で迎えたサンアントニオ・スパーズとのファーストラウンド第5戦は、最後までもつれた。第4クォーター残り37秒で、94-98とグリズリーズが4点のビハインド。

ここでマイク・コンリーが3ポイントラインの外からシュートを放つ。決まれば1点差。次の攻撃を凌げば十分に逆転のチャンスも生まれる――という展開だったが、彼独特の高い弧を描いたシュートは惜しくも外れ、ラマーカス・オルドリッジ(スパーズ)がリバウンドを取ったところで、半ばシリーズの行方が決まった。

グリズリーズにとってプレイオフ出場は7年連続ながら、3年連続でファーストラウンド敗退という結果に終わっている。シーズンが終われば、ザック・ランドルフ、トニー・アレン、ビンス・カーターというチームを支えてきたベテランの3人がフリーエージェントとなり、チームの方向性には不透明感が漂う。その一方で、コンリーのさらなる成長は、来季以降に向けてチームの明るい兆しとなった。

あくまでパスが第一。チームメイトをどう生かすか。それだけを考えているような選手だが、実は得点力も非凡。今年はレギュラーシーズンでキャリハイの1試合平均20.5点をマーク。プレイオフでは平均24.7点をマークして、スパーズを焦らせた。

ただ、得点はあくまでも必要にかられてのこと。来季もプレイオフのようにアグレッシブに得点を狙うかといえば、そのイメージは想像できない。これまで通り、黒子的な存在であり続けるのだろう。ゆえに、彼とプレイしたいと考える選手は少なくない。

グレッグ・オデンの影に隠れた大学時代

考えてみれば、生まれたときから、そういう運命を歩んだ。

知られるように、彼の父親マイケル・コンリー・シニアは、1992年に行なわれたバルセロナ・オリンピックの三段跳びで金メダルを獲得した陸上界の大スターだ。よってコンリーは長く“あのコンリー・シニアの息子”という存在だった。

1990年代の終わり、父が「USA Track & Field」から仕事のオファーを得て、ヘッドクォーターがあるインディアナポリスへ引っ越すと、コンリーは後に大学まで一緒のチームでプレイするグレッグ・オデンに会った。12歳のときだったという。

オデンは、インディアナポリスから車で1時間ほどのテレホートという街に住んでおり、夏になるとコンリーの家に寝泊まりしながら、インディアナポリスをベースに戦う同じAAUのチームでプレイした。しかしもちろん、そこで注目されたのは、あくまでもオデンのほう。彼らは4年間、競合がひしめき、全米でも最もバスケットが盛んな街のリーグでわずか2敗しかしなかったそうだが、そこで早くもオデンは、彼の世代でトップと評価され始めたのである。

Mike Conley Grizzlies Greg Oden Blazers
2007年のNBAドラフトで全体1位指名を受けたオデンと同4位指名のコンリー

「チームが強かったのは、息子(マイク)が、きっちりみんなにパスをしていたからだ」というのはコンリーの父親のコメント。それは正しかったが、そのことが知れ渡るのはもう少し先。まだまだコンリーはオデンのチームにいる“上手い選手”に過ぎなかった。

2人はその後、揃ってインディアナポリスの北東に位置するローレンス北高校に進学する。同校を3度の州チャンピオンに導き、4年間で103勝7敗と他を圧倒した。伴ってNBAや大学のスカウトが増えたが、それもオデンが目当てだった。

そんな中、高校のジャック・キーファー・ヘッドコーチ(HC)は、コンリーの才能に目を見張るようになる。彼は決して1試合で20点、30点を取るような選手ではなかったが、バスケットを知り、自分を犠牲にできる。コーチにしてみれば、気を使う必要のない選手だった。しかも、それだけにとどまらない。あるとき、オデンが故障で試合に出られなかった。するとコンリーは、38点を取ってチームを勝利に導いたのだという。

キーファーHCが、米メディア『GRANTLAND」の取材に対し、こう振り返っている。

「チームに得点が必要であれば、彼はそういうバスケットもできた」。

柔軟なプレイスタイル

スタイルそのものが柔軟。が、やはりあくまでチームメイトを支えるのが彼のスタイル。あるときオデンからどの大学に進学すべきか相談を受けたとき、キーファーHCはこうアドバイスしたそうである。

「コンリーと同じ大学へ進めばいい」。

キーファーHC は分かっていた。オデンが輝くのはコンリーがいるからこそ。そして、オデン自身も12歳から一緒にプレイしているコンリーの存在の大きさを自覚していた。

当初オデンは、地元の名門インディアナ大学から熱心に誘われていたものの、インディアナ大はコンリーに興味を示さず、それは大きなミスだったが、一方でオハイオ州立大は2人に興味を持った。彼らが揃ってオハイオ州立大へ進学した背景には、そんな経緯があったのだ。

その大学1年目。2人の1年生コンビは、オハイオ州立大が27勝3敗という好成績をあげる支えとなり、NCAAトーナメント(全米大学バスケット選手権)でも決勝へ進む原動力となった。

その年――2007年のNBAドラフト。全体1位で指名されるのはオデンかあるいはテキサス大のケビン・デュラントかと目されていたわけだが、そこからの展開は、コンリーにも意外だったよう。

「自分が、高く評価されているなんて知らなかった」。

NBA入り後、『NBA.com』の取材にコンリーはそう応えているが、父親にとっても寝耳に水。彼は、オデンの代理人をするために準備をしてきた。ところがNCAAトーナメントの準決勝が終わると、息子からこう聞かれたそうだ。

「いとこが、俺もドラフトにかかれば、上位で指名されるって報道されているって言うんだけど、本当か?」。

コンリーは自分が上位で指名されるとは思わず、ドラフトは他人事だった。父親もそこまで息子を評価していなかった。しかし、NCAAトーメメントで誰よりも評価を上げたのはコンリー。実際、その年のドラフトでグリズリーズが全体の4位で指名した。

このとき、長くオデンの影にいた彼に日が当たり、その後、2人は対照的なキャリアを歩むことになる。

プロ入り後、自らの立場に苦しむも

もっとも入団してしばらく、コンリーは置かれた状況に苦しんだ。

1年目、チームには前年のドラフトで1巡目指名されて入団していたカイル・ラウリー(現トロント・ラプターズ)とベテランのデイモン・スタウダマイヤーという2人のポイントガードがいた。スタウダマイヤーはシーズン途中でスパーズに去り、ラウリーは翌年のシーズン途中にヒューストン・ロケッツにトレードされたが、コンリーの3年目が始まる直前、グリズリーズはフィラデルフィア・76ersなどで活躍したアレン・アイバーソンと契約を交わした。

さすがにコンリーも混乱したよう。自分に任せてくれるんじゃなかったのか――?

翌2010年のドラフトでグリズリーズは1巡目指名権を使ってやはりポイントガードのグレイビス・バスケス(前ブルックリン・ネッツ)を指名。2012年のドラフトでもトニー・ローテン(現76ers)を1巡目で指名した。コンリーはやがて、こう考えるようになる。

「チームはポイントガードを次から次に指名している。自分はいつトレードされてもおかしくない」。

Mike Conley Marc Gasol Grizzlies
マルク・ガソルとともにチームを支える

ところが、チームを離れていったのは彼らのほうで、残ったのはコンリーだった。昨年のオフ、グリズリーズはコンリーと5年総額1億5300万ドルで再契約を交わす。その時、少なからず過大評価だとの声もあったが、それが、グリズリーズが出した答えでもあった。

振り返れば、ここまで少々、時間がかかった。しかしもはや、彼がフランチャイズプレイヤーであることを疑う人はいない。

おそらく今後、サポーティングキャストは変わっていくだろう。それでも彼は、同じ年にドラフトされたマルク・ガソルとのコンビで、これからも長くグリズリーズを支えていくに違いない。もしも一つだけ、一つだけ、注文をするとしたら、スパーズとのプレイオフ第5戦の最後に3ポイントシュートを決められる勝負強さが欲しいところ。あれを決められれば、彼はまた一つ、階段を上がることになる。

文:丹羽政善

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