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[丹羽政善コラム第45回]ハッサン・ホワイトサイドーー逆境を跳ね返した遅咲きセンター

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2010年6月、サクラメント・キングスにドラフトされるも、2年でクビに。再びNBAに定着するまで、Dリーグ、中国、レバノンを渡り歩いた。

オフには地元ノースカロライナ州のYMCAなどでトレーニングを続け、“いつかは”と自分に言い聞かせた。

2014年夏、マイアミ・ヒートのエリック・スポ−ルストラ・ヘッドコーチに会ったときにはこう訴えたという。

「チャンスをくれ。絶対に後悔はさせないから」。

2014年、シーズンが始まってからヒートに拾われたハッサン・ホワイトサイドは、以来、徐々に成長し、今やヒートのディフェンスの要であり、チームの柱となった。遅咲きのセンターは、自分は特別だと信じ、様々な逆境に屈することなく、ついに子供の頃の夢を叶えた。


リーグ屈指のビッグマンへ

7フット(約213cm)という身長に加え、長いリーチを持つハッサン・ホワイトサイド。現地3月14日現在、リバウンド部門でリーグトップに立ち(14.2)、ブロックでは3位(2.08)だが、昨季は3.68でリーグトップだった。二桁ブロックを記録したのは昨季だけで3度。いずれもトリプルダブルにつなげ、「得点/リバウンド/ブロック」のコンビネーションで複数回トリプルダブルを記録したのは、NBA史上7人目となった。

昨季はディフェンスでセカンドチームに選ばれ、守備のスペシャリストとのイメージが強いが、今季の平均得点は16.6点でキャリアベスト。昨季の時点で、「最も成長した選手の1人」と評価されたが、今季はさらに飛躍し、今やリーグでも屈指のビッグマンだ。
                                                                                                                           
ただ彼は、ここにいたるまで、ずいぶん時間を要した。

ドラフトされたのは2010年のこと。大学1年目を終えたあと、キングスから2巡目、全体の33番目で指名されている。子供の頃からの夢を叶えたかに見えたが、1年目は多くの時間をDリーグで過ごし、さらにケガもあって出場試合数は1試合のみだった。2年目もDリーグでの出場がほとんど。NBAにいた時間はわずかで、出場したのは18試合にとどまっている。

その後、ホワイトサイドの成績を見ると、2シーズン分がない。

実はその2年間、彼の居場所はNBAにはなかった。キングスにいたときからDリーグと行ったり来たりだったが、2年で解雇されると、その後は、Dリーグだけでなく、中国、レバノンにも活躍の場を求めた。ある意味、そこまでハードルを下げたのである。過去、そこから這い上がって、オールスターレベルとなった選手がいただろうか。

日本時間3月18日のティンバーウルブズ対ヒートをNBAリーグパスでチェック!

だが、そこまで落ちたからこそ目が覚めた。ホワイトサイドによれば、レバノンでの経験が再びNBAを目指すきっかけになったという。

「道端で人が死んでいた。最初の試合では暴動が起きた。そのとき自分に問いかけた。『自分はここにずっといたいのか?』って」。

ずいぶん回り道したが、もう一度バスケットと真剣に向き合ったとき、潜在能力が開花し始めた。

モチベーションは間違った評価を覆すこと

彼の少年時代を辿ると、決してバスケットエリートではなく、その頃から回り道が多かった。

父のハッサン・アルブバカーは、ディフェンシブエンドの選手として、NFLでプレイ。ホワイトサイドは、アスリートのDNAを受け継ぎ、赤ちゃんのときには平均の4倍のミルクを飲み、医者からは「将来、身長が7フィート2インチ(約218cm)ぐらいになる」と予告された。父親の身長が6フィート5インチ(約196cm)。祖父の身長が7フィート3インチ(約221cm)。可能性は十分だった。

ところが、思ったよりも身長が伸びず、15歳のとき名もない高校のチームでレギュラーにさえなれなかった。母親がコーチのところへ行くと、こう説明されたそうである。

「ポジションが一つだけ空いている。しかしそれはセンターだ」。

当時まだ、ホワイトサイドの身長は5フィート11インチ(約180cm)。高校のセンターを務めるには低すぎ、かといってガードのポジションでは勝負できなかった。

転機が訪れたのは、15歳から16歳にかけて。1年で身長が6フィート(約183cm)を超え、久々に会ったバスケットのコーチが、ホワイトサイドだと気づかなかったほど。もっともその頃、バスケットを諦めたホワイトサイドはレスリングで頭角を現しており、すぐにバスケットに戻ったわけではないが、やがてバスケットに専念すると、今度は別の問題が生じた。

アメリカで子供たちが本格的にスポーツを始めると、単純に道具や、ユニフォームといった費用のほか、遠征時のホテル代なども親が負担しなければならない。その選手が大学で奨学金をもらう、あるいは将来のNBA候補であればあるほど、遠征距離も長くなり、負担も増える。ホワイトサイドの母親は4つの仕事を掛け持ちしていたが、合わせて7人の子供を育てており、経済的に限界だった。

そこで母親は離婚した夫、つまりホワイトサイドの父親に連絡を取り、息子のバスケットキャリアを託す。ホワイトサイドは高校3年のときにニュージャージー州へ転校し、改めてバスケットを始めることとなった。もっともそこにいたのは1年だけで、母親の元に戻ったころにはもう大学のスカウトが注目するほどの逸材に成長。大学は熱心に勧誘してくれたマーシャル大へ進学した。

Hassan Whiteside
2010年NBAドラフト指名後に母と

ただ当時、誰も今のような選手に成長するとは想像できなかったのではないか。身体能力の高さは誰もが認めるところ。とはいえ学力が低く、高校4年のときに留年。バスケットIQにも欠けると判断され、キングスに定着できなかったのも、そんな要素があったようだ。

だが彼は昔から、そういう見方を覆してきている。自分に対する評価が間違っていると証明することをモチベーションとして生きてきた。

小学校のとき、将来なりたいものを3つ書きなさいという宿題に、「バスケット選手、バスケット選手、バスケット選手」と書くと0点だった。先生からは「無理だ」と判を押されたが、あきらめなかった。

高校では最初、背が低いという理由でレギュラーから外された。身長が伸び、バスケットのスキルを磨くと、ケンタッキー大、オーバーン大、ミシシッピ州立大などから、奨学金のオファーが来るまでになった。

「自分は特別」だと信じて

NBAに入ってからの挫折はさすがに応えた。Dリーグからもなかなか這い上がれず、中国、レバノンで稼ぐしかなかった。

だが、そうしてNBAが遠のく中でも踏みとどまったのは、母親のこんな言葉あったからだという。

「お前は、特別だ」。

実は10歳のとき、ホワイトサイドは道路を渡っていて交通事故に会い、ひん死の重傷を負っている。命が助かったことも奇跡だが、ひざのケガが深刻で、病院では片方の足が短くなる可能性があるとも言われたそうだ。となるとNBA選手になるどころではなかったが、無事に回復。すると母親がこう言い聞かせた。

「特別じゃなければ、一生、病院で過ごさなければならなかった」。

Hassan Whiteside
得点、リバウンド、ブロックでトリプルダブルを複数回記録したのはホワイトサイドを含めてNBA史上わずか7人しかいない

子供の頃、ホワイトサイドにはその言葉の意味が理解できなかったが、身長が伸び、バスケット選手としては理想的な腕の長さを持ち、奨学金をもらって大学にも行けるようになると、自分ではコントロール出来ない強い運を感じ、「自分には特別な何かがある」と思い始めたという。そして、壁にぶつかるたび自分に言い聞かせた。

「俺は、特別なんだ」 。

もはや、その言葉に疑問を挟む余地はない。昨年夏、ホワイトサイドは4年総額9800万ドル(約111億円)でヒートと再契約を交わした。その2年前の夏にはYMCAでトレーニングをしていた彼がついにNBAに定着し、子供の頃の夢を叶えた。そして彼は今、NBAでも特別な部類の選手となった。

文:丹羽政善

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