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[丹羽政善コラム第41回]ヤニス・アデトクンボ――路上での物売り生活から1億ドルプレイヤーへ

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長いリーチを生かし、ブロックショットから速攻。パスを繋ぎながら、最後は自ら豪快にダンク――。昨季だけでも何度、そんなヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス)のセンセーショナルなプレイを見たことか。

2メートル11センチとビッグマンの身長ながら、ガード並のクイックネスと巧みなボールハンドリング力を有し、司令塔を任されることも。併せ持つ視野の広さは21歳という若さを感じさせない。

3年半前まで、ギリシャで不法移民の子として育つと戸籍がなく、書類上、この世に存在していなかったが、開幕前に4年総額1億ドル(約105億円)でバックスと契約を延長。運命に翻弄されたアデトクンボが、NBAでステータスを築き、今やギリシャ移民の希望に。彼も遠い祖国への思いを背に、バスケットのコートに立つ。


ギリシャ国旗は、9本の縞によって構成されている。1821年、オスマン帝国からの独立を目論み、ギリシャ人が決起。このとき、「自由か、さもなくば死か」というスローガンを掲げて独立戦争に挑んだが、一説によると、その合言葉の発音が9音節だったことに由来するそうだ。

2013年6月、ヤニス・アデトクンボがドラフトの1巡目(全体15位)でミルウォーキー・バックスから指名されると、兄のタナシス・アデトクンボ(翌年、ニューヨーク・ニックスが指名)が、ブルーと白のコントラストが鮮やかなギリシャ国旗を広げた。

あの行為に込められたのは、単に彼らがギリシャ出身だから、という程度の理由によるものではない。アデトクンボ、そして彼の家族は自由を求めて戦い続けてきた。自由への戦いを象徴するあの国旗には、彼らの思いが投影されていた。

そこに至る軌跡を辿る。

オリンピックの発祥地ギリシャ、アテネでアデトクンボが生を受けたのは、1994年12月6日のこと。

父は元プロサッカー選手、母は高飛びの選手というアスリート血統。アデトクンボも桁外れの身体能力を受け継ぐも、プロスポーツ界とは無縁の環境で育った。

アデトクンボが生まれる3年前、まともな職がなく生活が困窮すると、両親はナイジェリアに長男を残し、ギリシャへ渡る。ところが、不法移民にまともな仕事などなく、オレンジ農園で働くもそれでは生活がままならず、道端でアクセサリーを売り、アデトクンボもまた、物心がついたころから同じように働いた。

ドラフト直前、『ニューヨーク・タイムズ』紙に彼のこんなコメントが載っている。

「時々、冷蔵庫になにもなかった。売上げがないときは、食べ物を買うお金もなかった」。

家賃が払えず、退去を迫られたことも。同じ貧困地区でさらに安いアパートを探し、アデトクンボは3人の兄弟と一緒に一つの部屋で寝た。やがて、身長と身体能力の高さを見込まれて、フィラスリチコスという小さなジュニアチームでバスケットを始めることになるが、兄弟で一足のバスケットシューズを貸し借りし合いながら履いたという。

それでも彼らにとっては、バスケットの練習をしているときが全てを忘れられる時間だったが、ときにその大好きな練習に姿を見せなかった。休んだことで、チームのメンバーから外される可能性もあったものの、彼らはその日、路上で物を売ってお金を得ることができなければ、食べるものがなかった。

成長に伴い、彼らを巡る状況は悪化の一途をたどる。2000年代後半、ギリシャは未曾有の経済危機を迎えた。24歳以下の3分の2近くが失業したとも報じられるほどで、不法移民が仕事を奪っている、彼らを追い出せ、との声も高まり、移民に対する風当たりが強くなっていった。

その中でも、アデトクンボらはまだ恵まれていたのかもしれない。近くのカフェのオーナーは、毎朝、ご飯を食べに来るようにと伝え、別の人は古着などを与えた。フィラスリチコスのコーチらは、アデトクンボの母親の仕事探しに奔走。街の人たちが、アデトクンボのバスケットの才能を支えたのである。

彼はやがて順調にバスケット選手として頭角を現す。17歳でフィラスリチコスにある国内2部リーグのチームと契約。ゆくゆくは1部リーグ、国の代表にと、人々は期待をかけたが、そうしたシナリオが現実的となって初めてある問題が浮き彫りとなった。アデトクンボは不法移民の子。戸籍がなかった。ナイジェリアにも、ギリシャにも。となると、NBAどころではない。パスポートもない。海外へも行けない。

もちろん彼は、ギリシャで生まれ、ギリシャの学校へ行き、ギリシャ語も堪能。彼には市民権を得るための資格が十分にあったが、経済危機に喘ぐギリシャは、負担が軽くない不法移民の増加に頭を悩ませており、何千人という彼らによる市民権の申請に伴う審査は、事実上、凍結されていた。となると、アデトクンボ本人やその家族、支援者らの手に負える問題でもなかった。

申請をしてから、2年近い月日が流れたころ、スペインのチームとの契約が決まった。NBAのスカウトがアデトクンボの試合に姿を見せるようになった。ドラフトされるかもしれない――。その点では順調すぎるほど順調だったものの、一向に審査が進まない。ギリシャのバスケットボール協会が働きかけても埒があかず、ギリシャ代表チームの元ヘッドコーチで、ギリシャのスポーツ界に力を持つヤニス・イオアニディス体育担当副大臣が動いて、ようやく事態の打開に繋がる。アデトクンボにギリシャの市民権が与えられたのは、NBAドラフトのわずか1か月前のことだった。

このとき、大きな山を超えたことになるが、彼にはさらなる波乱が待ち受けていた。

アデトクンボがNBAドラフトで指名されると、ギリシャ国民が熱狂。それを利用し、新民主主義党のアントニス・サマラス首相が、彼を招待して祝福。「君は、ギリシャ国民の誇りだ」と持ち上げた。

ところが、そうしてスポットライトが当たってしまったことで、アデトクンボは、当時、勢力を伸ばしていた、移民排斥を主張する「黄金の夜明け」という極右政党とその支持者の標的となってしまう。あるとき、アデトクンボは生まれ育ったセポリア地区で彼らに囲まれ、脅しを受けたそうだ。

そんな事件もあって、彼はバックス入りが決まると、家族全員をミルウォーキーに呼び寄せたが、だからといってギリシャへの思いが変わることはなかった。アデトクンボは市民権を得た数か月後、ナイジェリアかギリシャか、国籍を選ぶことを迫られた。そのとき彼は、迷わずギリシャを選んでいる。彼にとってギリシャは、唯一の祖国だった。

NBAには貧困や厳しい環境を生き抜いた選手が少なくない。あのレブロン・ジェームズ(クリーブランド・キャバリアーズ)も母子家庭で育ち、父親を知らない。幼い頃は、低所得者用のアパートの家賃さえ払えず、住むところを転々としたが、アデトクンボの場合、生きている証すらなかった。毎日、食べるために路上で物を売った。

ただ、そんな彼を支えてくれる人がいたのである。アデトクンボは、彼らと同じギリシャ人であることを誇りに思う。だからあのドラフトの日、兄と一緒に9本の縞が入った国旗を掲げた。

それはついに彼が、自由を手にした瞬間でもあった。

文:丹羽政善

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