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[丹羽政善コラム第40回]ベン・シモンズ――オーストラリアが生んだ新型オールラウンダー

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今年のドラフトでフィラデルフィア・76ersから全体1位で指名されたベン・シモンズは、レブロン・ジェームズ(クリーブランド・キャバリアーズ)のようなオールラウンダーとの評価がある。6フィート10インチ(208cm)という身長ながらボールハンドリングはポイントガードレベル。一方で、ゴール下では高さを生かしビッグマンとも争える。彼のポジションを“ポイントセンター”と呼ぶメディアがあるのはそういう才能による。

76ers、そして76ersファンとしては、昨年のドラフトで1巡目指名(全体3位)されたジャバリ・オカフォーとともに長く低迷が続くチーム再建のキーマンになって欲しいところ。評判通りなら、上昇のきっかけが掴めるはずだ。

ところでそのシモンズは、通常、ドラフトで上位指名されるエリート選手とは少々異なるルートを通って、NBA選手への階段を駆け上がってきた。そのバスケットスタイルしかり。全くの無名選手から頂点へ。そのユニークな経歴をたどってみたい。


ベン・シモンズのルーツは、オーストラリア第二の都市、ビクトリア州メルボルンにある。

彼の父、デイブ・シモンズはアメリカのオクラホマシティ大学でプレイし、名称エイブ・レモンズ・ヘッドコーチの元でバスケットを学んだ。大学を卒業してから、1989年にオーストラリアリーグのメルボルン・タイガースと契約。1991年には現地でエアロビクストレーナーをしていたジュリーという女性と出会って結婚し、2人の間に生まれたのがシモンズだ。ジュリーは再婚。すでに4人の子供がいて、デイブとの間に新たに2人の子供をもうけ、シモンズは6人兄弟の末っ子ということになる。一番上の兄弟とは15歳の年齢差があるそうだ。

シモンズは父親がバスケット選手という環境から、小さな頃から自然にバスケットをプレイするようになったが、多くのオーストラリアの子供たちがそうであるように、オーストラリアンフットボールにも夢中になったという。ただ、バスケットの才能が早い段階から突出し、4歳で7歳のバスケットリーグでプレイ。7歳のときには12歳の子供たちと競り合い、16歳でオーストラリアの代表チーム(U-17)に選抜されるほど。オーストラリアの同世代では、群を抜いていた。

だが、アメリカの同世代の選手らと比較ができず、彼の能力の評価もまた難しかった。よって彼が高校に入った頃、その存在がアメリカに知られていたかといえば全くの無名だった。仮に16歳でアメリカの代表チーム(U-17)に選抜されるような才能なら、米大学の強豪校が目を付け、リクルート合戦が展開される時期だが、オーストラリアにいる限り、彼らのスカウト網にシモンズがかかることもなかった。

ということはおそらく、そのままでは彼の才能は埋もれたままだった可能性もある。

では、それがどういう経緯でアメリカへ渡り、ルイジアナ州立大へ進学して、ドラフト1位で指名されるまでになるのか。

裏にはある人物の存在がある。

父デイブの親友にデイブ・パトリックという人がおり、ベンの名付け親、いわゆるゴッドファーザーでもあるが、その彼こそが、シモンズの才能を認め、NBAまでのレールを敷いた。

豪メルボルン生まれのパトリックは、まだ10代の頃、デイブ・シモンズに会った。彼はオーストラリアのジュニアチームのメンバーで、デイブのメルボルン・タイガースとは一緒に練習することもあったのだという。パトリックはアメリカの高校へ進学すると、現ルイジアナ州立大ヘッドコーチのジョニー・ジョーンズからリクルートされる。この出会いもまた、後にシモンズの運命を左右することになるが、パトリックはそのとき、シラキュース大進学を選んでいる。その後彼は、アメリカでコーチングキャリアをスタートさせたが、オーストラリアに帰国して15歳になったシモンズのプレイを見たとき、その成長、ポテンシャルに目を見張った。

そこで、彼は考えたのである。

「シモンズをなんとかアメリカの大学のスカウトの目に触れさせたい」。

それが延いてはNBA入りの足がかりとなるわけだが、彼は、旧知のディノス・トリゴニスという“パンゴス・オールアメリカンキャンプ”を主催する人物に連絡を取った。同キャンプには、将来有望な選手が集まり、大学、NBAのスカウトも顔を見せる。いわば、トライアウト的な要素があるわけだが、それにシモンズを出場させれば、注目されると考えたのである。

狙いは当たった。

このとき、オールスターのスラムダンクコンテストで2連覇中のザック・ラビーン(ミネソタ・ティンバーウルブズ)、クリフ・アレクサンダー(前ポートランド・トレイルブレイザーズ)、スタンリー・ジョンソン(デトロイト・ピストンズ)らが参加していたが、シモンズは彼らを遥かに凌駕したそうだ。

そのときの高い評価で息子の実力に確信を持ったデイブは、およそ1年半後――2013年1月――にシモンズをアメリカの高校に転校させる。このとき彼は、初めてNBA入りのレールに乗ったのである。NBA選手を輩出してきた強豪校モンテベルデ・アカデミー(フロリダ州)に入学すると、名門校のスカウトの目に留まるのに時間はかからなかった。

ところが彼は、その年の10月にはもう進学先にルイジアナ州立大を選んでいる。高校のトップ選手の進学先といえば、近年は、デューク大、カンザス大、ケンタッキー大、アリゾナ大、UCLAの5校がほぼ独占し、名門ノースカロライナ大でさえリクルートに苦戦していたが、そんな中でシモンズは、2006年以降2回しかNCAAトーナメントに出場できず、いずれも2回戦で敗れたチームを選んだのだ。

その数年前、パンゴス・オールアメリカンキャンプにシモンズを送り込んだパトリックはロケッツのスカウトもしていたが、ロックアウト中(2011年)にシモンズと会ったとして、1年間の追放処分を受けている。親友の子供と話をしただけなのだが、ルールに抵触した。

それからパトリックは、ルイジアナ州立大のアシスタントコーチに誘われ、就任。やがてシモンズがルイジアナ州立大への進学を表明したことで、シモンズを獲得するためにパトリックを雇用した、2人はパッケージだ、と疑われるようになったわけだが、先ほど触れたように、ルイジアナ州立大のジョーンズHCはかつて、パトリックをリクルートした過去がある。2人の関係は遥か昔にまで遡るのだ。決して唐突ではない。そもそも父のデイブが、アメリカ生活に馴染みのないシモンズをパトリックに託したかったよう。案外、それが一番大きな理由だったのかもしれない。

入学後のルイジアナ州立大での活躍は知られる通り。シモンズはチームをNCAAトーナメントに導くことはできなかったが、大学入学時に彼の年齢では全米トップと評価され、1年後もその座を譲らなかった。

ちなみに、シモンズが大学バスケット界にデビューすると、そのスタイルを多くが訝しく思った。アメリカで育った多くのビッグマンがそうであるようにゴール下に入ったら、個人技で点を取りにいくタイプではなかったのだ。

背景には父の教えがある。もちろんデイブはアメリカでバスケットを学んだが、オーストラリアへ行ってからヨーロッパタイプのバスケットに傾倒。ビッグマンもアウトサイドシュートを打ち、パスをする。何より“ボールの共有”を重視した。もっともデイブ自身はあまりシモンズにバスケットを教えた経験がないという。しかし、シモンズの兄らにはパスの重要性を教え、その兄らがシモンズに伝え、今のスタイルが出来上がった。

先日、76ersはシモンズをポイントカードとして起用することも考えていると報じられた。シモンズはこれから、型にはまらない、新しいタイプの選手になっていくのかもしれない。

文:丹羽政善

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