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[丹羽政善コラム第39回]スティーブ・カー――ウォリアーズ指揮官の知られざる半生

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Steve Kerr Warriors

ヘッドコーチ1年目に頂点を極め、今年、再びファイナルの舞台に帰ってきたスティーブ・カー(ゴールデンステイト・ウォリアーズ・ヘッドコーチ)。選手としてもシカゴ・ブルズ時代に3回、サンアントニオ・スパーズ時代に2回、計5回のファイナル制覇を経験している。

決して背が高いわけではなく、スピードがあるわけではないが、バスケットを理解し、希有なシューティング能力に恵まれた。そして、元来の向こうっ気の強さもバスケット選手向きだった。

選手時代、引退後ともに、表舞台を歩んできたカーだが、レバノンのベイルート生まれという意外な経歴を持つ。子供の頃は、中東を転々としながら育った。ただ、父はその中東で、反米感情の犠牲になった。カーが、バスケット選手としてのキャリアを本格的に歩み始めたアリゾナ大学1年のときである。

人当たりが良く、どんなときでもユーモア溢れるカーだが、心の奥底に深い傷がある。当時、そんなカーを救ったのがバスケットだという。カーとバスケットの結びつきの原点は、意外なところにあった。


1997年のNBAファイナル第6戦――。スティーブ・カーはヒーローになった。

86対86で迎えた残り28秒でブルズの攻撃。誰もがマイケル・ジョーダンがシュートを打つと思う中、ジョン・ストックトン(ユタ・ジャズ)がジョーダンにダブルチームを仕掛けたそのタイミングを見計らって、ジョーダンがフリーのカーにパス。カーはそのシュートを沈め、それが決勝点――ひいてはファイナル優勝を決めたのだった。

その試合後のことである。

会見場では、メディアが殊勲選手の到着を待ちわびていた。ヘッドコーチ、他の選手らの会見はすでに終って、かなり経つ。どうしたんだろう? と誰もが思い始めた頃にやって来たカーは、マイクの前に座るなり、こう言った。

「ゴメン、ゴメン。こんなところに呼ばれたことがないから、迷っちゃって」。

あっけにとられた。

締め切りが迫り、イライラしている新聞記者もいた。他の選手の取材に行きたいのに会見場に釘付けにされて、無駄な時間を過ごしていると感じているメディアもいた。ところがその一言で会見場に爆笑が沸き起こって、トゲトゲしたものが消えたのだ。


現役時代のカーの通算3P成功率(45.4%)はNBA歴代首位。その記録に次ぐのが、ウォリアーズでカーが指導するステフィン・カリー(44.4%)だ

大学生のカーを襲った悲劇

明るくて、度量があり、機智に富む。ただ、そのカーの心の奥底には、暗く、重い、歴史がある。

生まれたのはレバノンのベイルート。父マルコム・カーは、中東研究の第一人者だった。その父がUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で教鞭をとっていた関係で、カーは、カリフォルニア州でも過ごしたが、中東、ヨーロッパと行ったり来たりの生活。チュニジア、フランスで子供のころを過ごし、エジプトのカイロで高校生活も送った。

彼は、こんな話をしたことがある。

「私の両親は、世界を見せてくれた」。

さらに続ける。「世界には、違う言葉を話し、違う服を着て生活する人もいる。習慣も宗教も違う。そういうこと両親から教わった」。

そのとき、こんなオチをつけた。

「それは、デニス・ロッドマンとブルズでチームメイトになったとき、役に立ったよ」。

悲劇は突然だった。

1984年1月18日――。カーは、大学バスケット界の名門アリゾナ大学の1年生だった。午前3時に電話のベルが鳴る。それは、父の死を知らせるものだった。

当時、父のマルコムは、ベイルートに戻り、名門ベイルート・アメリカン大学の総長を務めていた。ただ当時、中東では反米感情が高まっており、マルコムは、イランによって送られた暗殺者により、大学構内で射殺されたのだ。当初、イスラム聖戦機構の仕業と見られたが、後に、ニューヨーク・ポスト紙によれば、イラン政府の関わりが明らかになったという。

ことの発端は1979年のイラン革命。それまでの新欧米化路線から一転して反欧米化を掲げる政府が樹立されると、テヘランにあるアメリカ大使館が占拠されるなどした。余波はベイルートにも及び、当初、懸念した大学側は、ボディガードをつけたが、マルコムがそれを断った。

「なぜ?」とカーは何度も問いかけたに違いない。ただ、答えが得られたところで、何かが変わるわけではなかった。

悲しみにくれるカーに、アリゾナ大の恩師ルート・オルソンHCは、こう声をかけた。

「時間が必要なら言ってくれ。バスケットから少し離れても良い」。

ただそのときカーは、「バスケットをしているときだけ、父のことを考えることができる」と話し、試合に出続けたそうだ。父の死のあと、最初に行なわれたアリゾナ州立大戦では7本中5本のシュート決めた。

それから4年後。彼はケガで1年休んだことから、アリゾナ大で5年目のシーズンを迎えていたが、アリゾナ州立大戦で、彼の心を引き裂くような事件が起きた。

相手の学生が試合前にこう叫び始めたのだ。

「PLO! PLO!」

PLOとは、パレスチナ解放機構の略称だが、「オヤジはどこへいったんだい?」と、彼らは、父が暗殺された事実を面白可笑しく、囃し立てた。

「海軍にでも入って、ベイルートへ帰れ」。

このときカーは首を振り、ベンチに座ると、静かに涙を流した。奥歯が震えるほどに――。

しかし、その試合で彼は前半だけで6本の3ポイントシュートを決め、相手を完膚なきまでに叩きのめしている。彼は、理不尽に対して立ち上った。彼らは超えてはいけない一線を越えてきたが、結果で黙らせたのだった。

ジョーダンにも怖気づかない向こうっ気の強さ

さて、そんなエピソードもあって、穏やかな表情を見せながらも、彼の向こうっ気の強さは有名だ。

かつて、こんなことがあった。

ブルズに移籍してまだ間もないころ、練習でジョーダンとマッチアップしていたとき、トラッシュトークが過熱した。ジョーダンは若い選手らを練習でも、口を使って、その圧倒的な身体能力を使って、徹底的につぶしにかかる。

だが、カーは引かなかった。逆に、“神様”に言い返し始めた。するとジョーダンがカーを突き飛ばす(カーの顔を殴ったとの説もある)。カーもジョーダンを突き飛ばした。そこでチームメイトが割って入ったが、険悪な空気は消えなかった。

ところがその後、カーは、「自分にとって最高にいいことだった」と振り返っている。

「あれで、彼に認められたような気がした」。


1997年NBAファイナル、ユタ・ジャズとの第6戦でブルズを5度目の優勝に導くプレイを決めたカーとジョーダン

普通なら、言い返すような選手はいない。なにしろ相手はジョーダンなのである。カーは逆に、突き飛ばした。その夜、ヘッドコーチのフィル・ジャクソンに言われたこともあるが、謝罪の電話を入れたのは、ジョーダンのほうだった。

そのとき、チームメイトもまた、新しく加わったカーを認めた。

それがまた、チームが一つになるきっかけともなったそうだ。


冒頭の第6戦――。

直前のタイムアウトでこんなやり取りがあった。

「このアリーナにいる人、テレビを見ているすべての人は、俺が最後のシュートを打つと思っている」とジョーダン。カーのほうを見て続けた。

「これはお前のチャンスだ。ストックトンは俺のほうへ(ブライオン・ラッセルの)ヘルプに来るだろう。そしたお前にパスを出す。準備は良いか?」。

「もちろんだ、それを決める」。

そのシュートを沈めたカーは、ヒーローになったのだった。

文:丹羽政善

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NBA日本公式サイト『NBA Japan』編集スタッフ