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[丹羽政善コラム第38回]コービー・ブライアント――色褪せることなき「24」の残像

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Kobe Bryant

4月13日、ロサンゼルス・レイカーズのコービー・ブライアントが、20年のキャリアに幕を下ろした。最後の試合では60点をマークし、終盤には難しいシュートも次々に決めて、往年の姿を彷彿とさせた。観客は総立ち。幸運にもチケットを手にできた人たちは、歴史の目撃者となった。

個人的にも彼の20年のキャリアの節目にたびたび、立ち会うことができた。NBAファイナル、オールスターゲーム、スキャンダル……。今回、そのいくつかをたどっていきたい。

 

97年オールスターでの初々しい表情

コービー・ブライアントはドラフト史上、最も豊作と言われている1996年のドラフトでシャーロット・ホーネッツに1巡目、全体の13位で指名された。その後、レイカーズにトレードされたが、これはホーネッツとレイカーズの間ですでに合意形成があり、レイカーズはブラデ・ディバッツを放出することで、トレードが成立している。

当初の評判は“Arrogant”。傲慢な野郎、尊大な野郎、という意味で、チームメイトでさえ、そう考えていた節がある。決して褒め言葉ではないが、取材してみると、印象が一変。フレンドリーで飾らず、構えたところがまるでなかった。

最初に取材したのは1997年のオールスターゲームでのこと。

通常、オールスターゲームでは2日前の金曜日に「メディアセッション」という取材時間が設けられる。テーブルに1人ずつ選手がつき、記者らは自由に取材ができる、という仕組みだ。

ただ、人気選手のテーブルというのは競争率が高く、なかなか話を聞けない。それならば、どこか人がいないところはと、ホテル内の会場を見渡していると、「ルーキーゲーム」(現在のライジングスターズ・チャレンジ)と「ダンクコンテスト」に出場予定のブライアントが1人で手持ち無沙汰にしていた。数年後には彼も、多くのメディアに囲まれることになるが、その時はたった1人だったのである。

「少しいい?」と話しかけると、「もちろんだ」と言いながら、正面の椅子をすすめる。座ったと同時に、ブライアント自身が質問を促した。

「何? 何を聞きたいの?」。

1人でいた時間が長く続いたからか、誰かがいてくれるだけでうれしい、という表情を向け、何を聞いても丁寧に答えてくれたが、仕草までコミカルだった。

この会場にいる選手の中で会って話をしてみたい選手は? と聞くと、ブライアントはわざわざ半立ちになって、会場を見渡す。しばらくして、「いや、1人や2人には決められないな」と一言。また考えて続ける。

「うん、無理だ。みんなに話が聞きたい」。

まるでファンのようなリアクションだったが、あのときはまだ、ブライアントにとってマイケル・ジョーダンらは雲の上の存在。まだ距離があった。

こんな質問をしたときには、彼の素が伺えた。

「今までに経験したことで、『こんなことってあるのか?』ということは?」と聞けば、少しだけ考えて、こんなエピソードを口にした。

「高校のときのことだけど、自分の車に戻ると、フロントガラスとワイパーの間に何かが挟まってたんだ。何かと思ったら、ヌード写真だった(笑)。裏には電話番号が書いてあったよ」。

その間、身振り手振りで説明する。写真を手にして首を傾げる素振りや驚くような表情まで、再現してくれたのだった。あれを目の当たりにすると、彼のことを到底憎めなくなる。


1997年のオールスター、スラムダンクコンテストで優勝

だが、残念ながら、そんな一面に触れられたのも、このときが最初で最後。翌年以降、毎年オールスターゲームに選出され、スーパースター街道をまっしぐら。オールスターゲームのメディアセッションでは、話を聞こうとするメディアで何重にも人垣ができた。

ただ、シーズン中、例えば、インディアナポリスのようなメディアの少ないところでは、多少話を聞くことも可能だった。ロサンゼルスから来るのは地元紙から3人ほど。インディアナポリスには1紙しか新聞がない。シアトルでも取材は可能だったが、アクセスが難しくなった最大の転機は、やはり2003年の事件か。

7月、ブライアントはひざの手術のためコロラド州を訪れていたが、宿泊したホテルの女性従業員をレイプしたとして訴えられた。7月18日、ブライアントは奥さん同伴で会見を開き、合意の元だったと主張。それから2か月半後、オアフ島のハワイ大学でレイカーズのトレーニングキャンプが始まったが、そのときのメディアの数は、ファイナルか、オールスターゲームか、というぐらいに膨れ上がった。

もちろん、お目当てはブライアント。7月に会見をしてから、一切、公の場には出ていない。今回は、何を話すのか。

初日は練習を欠席し、2日目から合流。練習後、取材時間になると、テレビのカメラマン、リポーターらが、ブライアントのところへ殺到した。乗り遅れたため、少し後ろのほうで聞くことになったが、「この3ヶか月、どんな気持ちだったのか?」と聞かれて、彼は震えるような声で言った。

「恐ろしかった」。

裁判の行方がどうなるのか。有罪となれば、自分はどうなるのか。その場合、家族はどうなるのか。試合に負けても、会見では虚勢を張ってきた。プレイスタイルを批判されても、下を向くことはなかった。そんなブライアントがあのとき、小さく見えた。

 

事件後、紆余曲折のキャリアを歩んだブライアント

その後のキャリアというのは、ある意味、汚名を雪ぐ意味合いが含まれたが、紆余曲折があった。

2003-04シーズンは、ファイナルでデトロイト・ピストンズに敗れた。シーズンオフ、シャキール・オニールが、トレードを求めてマイアミ・ヒートへ移籍。2004−05シーズンにすぐさまドウェイン・ウェイドと組んで、移籍2年目の06年にNBAファイナルを制したのに対し、レイカーズはプレイオフ進出を逃し、その後2シーズンはプレイオフ1回戦で敗退した。

その2006−07シーズンのオフ、ブライアントはトレードを要求。これで再びイメージを悪化させたが、結局残留し、2007-08シーズンは、途中で加わったパウ・ガソルとのコンビが機能すると、ファイナルでボストン・セルティックスに敗れたものの、チームとしての成長が見られた。その後2シーズンはオーランド・マジック、セルティックスを下し、それぞれファイナルを制している。彼にしてみれば、最初の3連覇よりもはるかに価値のある連覇となったのではないか。

その後、チームは再び低迷。ブライアント本人も、故障などで欠場が多くなる。過去3シーズンは、107試合に出場したのみ。長年の酷使で、体が悲鳴を上げたか。

そういう流れの中で、先月4月13日に現役最後の試合を迎えたわけだが、あの盛り上がりは、事件後、彼がどんな選手であったか、どんな人間であったかの一つの答えなのかもしれない。ロサンゼルスだけではない。どこへいっても、事件後はブーイングを浴びた街でさえ、長年の功績を称えた。

相手チームの選手からは、「くそ生意気な野郎」と罵られ、嫉妬を伴った歪んだ感情を向けられることの多かったブライアントだが、ここでも状況は様変わりしていた。


2010年、パウ・ガソルらとともに臨んだNBAファイナル。ボストン・セルティックスとの第7戦を制し、2連覇を達成した

3月23日にフェニックスで行なわれたサンズ戦の試合後、リポーターらはレイカーズのロッカーの前で、オープンを待っていた。そのメディアの列の最後尾にサンズのブランドン・ナイトが、シューズを手に待っていた。ブライアントのサインをもらえないか、というわけだ。

レイカーズのチーム関係者が気づくと、シューズを手にロッカーへ消える。その後、ロッカーがオープンしたので、ナイトが無事、サインをもらったかどうか明らかではないが、あの日は、デビン・ブッカー(サンズ)とラリー・フィッツジェラルド(アリゾナ・カージナルス、ワイドレシーバー)もロッカーでサインをもらっていた。

最後にとサインをもらったのは彼らだけではなく、レブロン・ジェームズ(クリーブランド・キャバリアーズ)、クリス・ポール(ロサンゼルス・クリッパーズ)、ポール・ジョージ(インディアナ・ペイサーズ)らもそれを手にした。ブライアントはそんなとき、一言、メッセージを加える。ケビン・デュラントには、"Be the greatest"(最高の選手になれ)という言葉を添えたそうである。

天真爛漫で、怖いものなどなかったキャリア序盤は3連覇に貢献するなど、華やかな道を歩むも、2003年7月につまずいたことでイメージは地に落ちた。それは人によっては、回復すら困難な深い穴だったが、そこからブライアントは、少しずつ、しかし着実に前へ進み、それが最後、ファンにも選手にも評価された。

ところで、NBA入り当初は、チームメイトとも距離があったことを冒頭で触れたが、こんなことがあったのを思い出した。

レイカーズが、インディアナポリスへ遠征して来たとのことである。試合後、「FRIDAYS」というレストランで食事をしていると、オニール、エディ・ジョーンズ、エルデン・キャンベルらが、女の子を連れ立って入ってきた。レイカーズの選手はほぼ全員いたと記憶する。

ただ、ブライアントの姿がない。トイレに行くと、ジョーンズと一緒になった。並んで用を足しているときに「ブライアントは?」と聞くと、「あいつはまだ、21歳になってないから」。

当時ブライアントは19歳。あのときは何となく納得したが、考えてみれば、「FRIDAYS」で食事をするのに年齢制限などない。呼ばれていないのか、あるいは断ったのか、いずれにしてもチームメイトとも距離があったが、そこから、誰もが憧れる存在に上り詰めた。現役最後の試合には、オニールも足を運び、2人はそれまでのわだかまりを捨てた。

どうだろう。おそらくプレイオフが終れば、やがて多くが、ブライアントがいなくなったことの大きさに気づくのではないか。そして彼の姿をコートのどこかに無意識のうちに探してしまうのかもしれない。

「24」の残像は、そうそう消せるものではない。

文:丹羽政善

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