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[丹羽政善コラム第36回]ドウェイン・ケイシーーー日本でのコーチ修行を経てNBAへ渡った異色の名将

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Dwane Casey

ゴールデンステイト・ウォリアーズ、サンアントニオ・スパーズ、クリーブランド・キャバリアーズ(以下キャブズ)らの影に隠れているが、ここまで快調に勝ち星を重ねているのがトロント・ラプターズだ。今季もディビジョントップになれば3季連続。過去2シーズンは、いずれもプレイオフ・ファーストラウンドで敗れているためインパクトが薄いが、確実に東地区では、キャブズを脅かす存在となっている。そのラプターズを率いているのは、日本でも馴染みがあるドウェイン・ケイシー・ヘッドコーチ。就任5シーズン目だが、毎年、徐々に勝ち星を伸ばし、ここまでチームを成長させた。


日本を離れて1994年にソニックスのアシスタントコーチに就任し、2005年まで同チームでACを務めた Photo by NBAE/Getty Images

 

日本でのコーチ修行を経て、NBAの名コーチに

2000年代前半、日本から遊びに来ていた友人の息子をシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマアシティ・サンダー)の試合に連れて行ったことがある。試合後、帰ろうとすると前からドウェイン・ケイシー(当時ソニックスのアシスタントコーチ)が、偶然歩いてきた。すれ違い様、小学生だったその子供にハイタッチ。今はもう大きくなった彼は、あれからしばらく、何度もあのときのことを口にしていた。相当、印象に残ったようである。

ただ、あれだけ気さくで、普段はフレンドリーなケイシーも、試合中はといえば、般若の面をかぶっているかのよう。特にディフェンスでは手に丸めた紙を持ち、立ち上がって大声を張り上げる。あのスタイルは、ソニックスでのアシスタントコーチ時代から変わらない。

さて、今の彼があるのは、卓越したディフェンス理論によるところが大きいが、実は日本にも過去、その理論がもたらされている。ケイシーは1990年代前半に積水化学の女子バスケットボール部のヘッドコーチを務め、その後、いすゞ自動車でも臨時コーチとしてたびたび来日し、その90年代、男子日本代表のスペシャルアシスタントを務めると、チームが31年ぶりの世界選手権出場(現FIBAバスケットボール・ワールドカップ)を決める原動力となっている。

では、今やNBAでも実績を収めているそんな優秀なコーチが、なぜわざわざ日本で指揮を執っていたかだが、そこにはわけがある。

出身は名門ケンタッキー大学。当時からNBAへ行くというより指導者の器と見られたという。大学時、ヘッドコーチのジョー・B・ホールから、「卒業したらコーチをしてはどうか」と勧められ、実際、大学を出ると、母校とウェスタン・ケンタッキー大でアシスタントコーチを務めている。そして1985年、母校に戻って名将エディ・サットンHCのアシスタントコーチに。おそらくそのとき、サットンの後は、ケイシーがケンタッキー大の指揮を執る、というレールが敷かれていたはずだ。

ところが、そうした道は突然閉ざされる。1988年、こんな事件に巻き込まれたのだ。

今では、「はめられたのでは?」との見方があるが、かつて存在したエメリー・ワールドワイドというパッケージや手紙を運ぶ航空輸会社の職員が、たまたま封の空いた手紙を見つけ、その中に1000ドルの現金が入っていたそう。差出人はケンタッキー大で、リクルートも担当していたケイシー。受取人は後にキャブズ、ウォリアーズで活躍するクリス・ミルズの父親。これは、ミルズを入学させたいがため、父親へ送った賄賂では、と疑われたのだ。

エメリー・ワールドワイドから連絡を受けたNCAA(全米大学体育協会)が調査した結果、ケイシーとサットンHCは辞任に追い込まれ、さらにケイシーは、米国の大学でコーチをすることを5年間も禁じられている。これは半ば、米大学バスケット界を追放されたも同然だった。

無実を訴えていたケイシーの主張は受け入れられなかったが、そこでケイシーを救ったのが、日本のバスケット界である。彼がケンタッキー大で選手だった頃、コーチ留学していた小浜元孝氏(元日本代表男子ヘッドコーチ)が、その道をつくった。ケイシーがいすゞ自動車や日本代表に関わったのもそういう縁だ。

 

ディフェンスの指導者として頭角現す

1990年、ケイシーは名誉毀損で訴えていたエメリー・ワールドワイドと和解。NCAAもケイシーの関与が証明できなかったとして、処分を解除。ようやく復権なったが、米バスケット界に戻るのは、1994年に当時ソニックスのヘッドコーチだったジョージ・カール(現サクラメント・キングス・ヘッドコーチ)から声がかかるのを待たなければならなかった。事件から6年後のことである。

ソニックスではカールHCの元、主にディフェンスを担当するとその功績が認められ、2005年、ミネソタ・ティンバーウルブズのヘッドコーチに就任する。その後、わずか1年半で解雇されたのは不可解だったが、ダラス・マーベリックスのアシスタントコーチに就任すると、再びディフェンスを担当。マーベリックスは2010−11シーズンにマイアミ・ヒートを下してNBAファイナルを制したが、ケイシーの貢献が評価され、ラプターズでヘッドコーチに返り咲いたのである。

ちなみに2000−01シーズン、リック・カーライル(現マーベリックス・ヘッドコーチ)はソニックスの試合のテレビ解説をしていた。そのときソニックスでアシスタントコーチを務めていたのがケイシーで、そのときの縁が2人を結びつけている。

話を戻せば、ラプターズのヘッドコーチに就任したケイシーは、チームを3年でプレイオフに導き、プレイオフではまだ結果が出ないが、東地区のトップチームに導いた。

2月26日には、キャブズと対戦。東地区の勝率1位と2位の対戦に全米が注目したが、ラプターズは最後、逆転勝ちを収めている。その試合ではケイシーHCが、選手を上手くコントローしたとして、評価された。

プレイオフの前哨戦とも言われる中、ケイシーHCはこう言い聞かせたそうだ。

「82試合のうちのたった1試合だ」。

プレイオフではおそらく、勝ったほうがNBAファイナルへ行く可能性が高い。そこを意識しすぎれば、自分たちのバスケットができなくなる。ケイシーHCは各選手に「自分らしくいること」を強く意識させ、キャブズとの一戦を制したのだった。こうなってくると彼らが、どこまでプレイオフで勝ち進むのか、興味深い。

ところで、ケイシーとは、ソニックス時代にも何度か取材をさせてもらったが、あるとき飛行機で一緒になった。サンアントニオでNBAファイナルを取材した後、ミネソタ経由でシアトルに帰ったが、そのミネアポリスからの便が同じだった。

搭乗前、着陸後は荷物受取所などでいろいろな話をした。そのとき彼がこんなことを言っていたのを覚えている。

「コハマのおかげで、ここまで来ることができた」。

ケイシーは、コーチングキャリアの再スタートを日本で切った。あそこで小浜氏に拾ってもらえなかったら、自分はどうなっていたのか。そんな思いを強く持っているようだった。

文:丹羽政善

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NBA日本公式サイト『NBA Japan』編集スタッフ