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カイリー・アービング物語(1):4thグレイドで立てた誓い(杉浦大介)

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Kyrie Irving

プロバスケットボール選手の父親とともに

「目標:NBAでプレイすること」。

日本の小学校4年生にあたる4thグレイドのときに、カイリー・アービングは紙にそう書きつけた。以降、そのメモは常にアービングの手元にあった。ガリガリに痩せ、身長も5フィート8インチ(約172cm)に過ぎなかった高校1年生時をはじめ、当初は頻繁に実力を疑われてきた。アービングはそのたびに紙を引っ張り出し、眺め、誓いを新たにしていたのだという。

カイリー・アンドリュー・アービングは、1992年3月23日、オーストラリアのビクトリア州メルボルンで生まれた。父ドレデリックはボストン大学でバスケットボールをプレイし、1988年にNCAAトーナメントに出場。その後にボストン・セルティックスの入団テストを受けるが、NBA入りの夢は叶わなかった。ドレデリックがオーストラリアでプロ選手としてプレイしていた間に、カイリー・アービングは誕生したのだった。

「(カイリーと1歳上の姉が)1~2歳の頃からベビーカーに乗せてベンチで待たせていた。より年齢を重ねても、私の出場するゲームに連れていった。行儀の良い子供たちだった。ベンチの端でゲームを見ていた。何かが必要なときはタイムアウトをコールしたけど、そんなことはめったになかった」。

ドレデリックは当時をそう振り返る。そんな環境で育ったアービングが、バスケットボールに興味を持つのは必然だった。家族はアービングが2歳のときにアメリカに戻り、ニュージャージー州ウェストオレンジに移住。以降、アービング親子は生き馬の目を抜くようなニューヨークエリアのバスケットボールシーンで生き続けることになる。

「僕はとてつもなく負けず嫌いな人間だと思う。コート上では相手を破壊したいと考えてプレイしているからね。そんな気質は父親から受け継がれたのだろう」。

そんな言葉を聞くまでもなく、アービングの人生において、父親の影響が大きかったことは容易に想像できる。特に、4歳のときに母親が急逝し、父子家庭で育ったことを考えればなおさらだ。

Kyrie & Drederick Irving

2011年のドラフトロッタリーの際、父ドレデリックと

9歳の頃、ニューヨークで初めてプレイした際、アービングはニューヨーカーのトラッシュトークに威圧されて実力を発揮できなかったことがあった。その帰り道、父に約90分にわたって叱責されたというエピソードは象徴的だ。父は息子を愛し、そのキャリアに大きな期待をかけた。息子も同じように自分自身を信じ、4thグレイドで誓った目標は決して揺らぐことはなかった。

「8thグレイド(日本の中学1年)のときに、僕はニュージャージー州で最高のガードになると父親に言われた。高校4年生のときには僕が全米No.1になる、そしてカレッジ時代にはドラフト1位指名選手になると言われた。それを叶えるかどうかは僕次第だった」。

振り返ってみれば、ほぼすべて父親のプラン通りに進んだことになる。モントクレアキンバリーアカデミーからセントパトリック高校に転校すると、4年生時には平均24.0得点、7.0アシストをマーク。2009年にはナイキ・グローバルチャレンジでMVP、2010年にはジュニアナショナル選抜チームに選出、2010年にはジョーダン・ブランド・クラシックでハリソン・バーンズ(現ダラス・マーベリックス)とMVPを分け合うなど、アービングは輝かしい実績を積み重ねていく。2010年6月にU18のアメリカ代表に選ばれ、FIBAアメリカ選手権優勝に貢献する頃には、全米最高級の若手プレイヤーと高く評価されるようになった。

「基盤を与えてくれる父親を持った僕は幸運だった。ただ、与えられるものに満足してはいけない。父は僕により多くを望むことを教えてくれた」。

NBA入りを目指した夢を果たせなかった父ドレデリックの想いはこうして息子カイリーに受け継がれていった。稀有な才能に加え、父親譲りの強い意志を備えたアービングのキャリアはほどなく全国区に飛翔していったのである。

Kyrie Irving

デューク大1年終了時にドラフトエントリー

高校を卒業後、アービングは“コーチK”ことマイク・シャシェフスキー・ヘッドコーチ率いるデューク大学に進学する。全米制覇の期待は大きかったが、1年生のシーズン9戦目で右足つま先を痛めて戦線離脱。NCAAトーナメントで復帰し、準々決勝のアリゾナ大戦では28得点をあげたものの、試合に敗れてしまった。

結局、カレッジでのキャリアは11戦のみ。それでも平均17.5得点(フィールドゴール52.9%)、4.3アシストをあげたセンス溢れるポイントガードの評価が下がることはなかった。

NBAドラフトへのアーリーエントリーを表明すると、“いの一番指名”の有力候補に浮上。下馬評通り、2011年のドラフト全体1位でクリーブランド・キャバリアーズ(以下、キャブズ)への入団が決まった。チームの象徴だったレブロン・ジェームズに1年前に去られていたキャブズは、再建の切り札としてアービングに期待をかけたのだった。

Kyrie Irving

2011年NBAドラフトでキャブズから全体1位指名を受ける

「再建状態にあるチームだから、プレッシャーはいずれのしかかってくる。全体3位以内で指名された選手はみんなそれを感じるはずだけど、レブロンが去った直後のクリーブランドでは一際重い。ただ、ドラフト指名された選手は、誰でも自分自身のことにフォーカスし、チームに新たな伝統をもたらすことを考えるべきなんだ」。

親子の夢をついに叶えたドラフトの前後も、アービングのそんな落ち着いた語り口は評判を呼んだ。当初からの期待通り、No.1ルーキーはNBA入り直後からその得点力を発揮していく。2011-12シーズンは平均18.5得点、5.4アシストをあげ、120人の投票者中117人の1位票を集めて新人王を獲得。2年目には早くも平均20得点(22.5得点、5.9アシスト)を突破した。アービングの1on1のスキルはNBAレベルでも最高級で、入団当初からほとんど思いのままに得点しているように見えた。

>>>カイリー・アービング物語(2):頂点への飛躍へ続く

文:杉浦大介  Twitter: @daisukesugiura

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著者
杉浦大介 Daisuke Sugiura Photo

東京都出身。高校球児からアマボクサーを経て、フリーランスのスポーツライターに転身。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、ボクシングを中心に精力的に取材活動を行う。『日本経済新聞』『スポーツニッポン』『スポーツナビ』『スポルティーバ』『Number』『スポーツ・コミュニケーションズ』『スラッガー』『ダンクシュート』『ボクシングマガジン』等の多数の媒体に記事、コラムを寄稿している。