NBA

“ドクターJ” ジュリアス・アービング来日インタビュー「自分が最高峰でプレイする“バスケットマン”だということを常に意識してほしい」(西尾瑞穂)

Sporting News Logo

――久々の来日、ありがとうございます。前回の来日は20年近く前になりますか?

そうだね。来日は1990年代以来になる。実はつい最近、日本にいる知人から「新しいゴルフクラブ(ゴルフ場)ができたから遊びに来ないか」という連絡をもらったのだけれど、そのときは日本に来られなかったから、実際に来日したのは90年代以来だ。現役時代の1970年代から数えると、5~6回は日本に来ているよ。

――気に入っている日本のものや場所はありますか?

昨日(7月22日)ホテルに到着して、窓から見下ろした東京の街は美しかったよ。今日見学に行った皇居も素晴らしかったし、明日の午後に銀座で買い物をするのも楽しみにしている。

過去の来日で思い出に残っているのは、夜中に1人で電車に乗ったことだね。当時の日本では夜中に電車の中で外国人に会うことなんて滅多になかっただろうから、居合わせた乗客は驚いただろうね(笑)

それから、日本でゴルフをしたのも特別な経験だよ。アメリカ人も日本人もゴルフが好きなのは共通しているけれど、日本のゴルフ場はアメリカのゴルフ場とは全く違って凄く高級なんだ。知人は「2週間アメリカに滞在してゴルフをすれば、日本の1年分はプレイできる」と言っていたよ。

とにかく、日本は何度でも訪れたい場所だよ。


Illustrated by Mizuho Nishio

――あなたはバスケットボールの歴史上の様々なムーブやダンクを生み出しました。そして、多くの選手があなたの技を真似しようとしてきました。レブロン・ジェームズ(クリーブランド・キャバリアーズ)やケビン・デュラント(オクラホマシティ・サンダーからゴールデンステイト・ウォリアーズへ移籍)があなたの“ベースライン・ムーブ”という技を試合中に繰り出したことも記憶に新しいです。このように多くのスター選手があなたの技を真似することについて、どのようにお考えですか?

私の技は、試合の流れの中で自然と生み出されたものなんだ。試合中に相手選手が繰り出してくるブロックやスティールや身体接触に対応するために、自然と私の体が動いて数々の技が生まれた。

たとえば、空中で右手から左手にボールを持ち替えたり、ボールを掴んでボールを前後に振り回したりね。そういった技は試合の中だからこそ生まれるんだ。つまり、とても重要なのは、凄い技が生まれるのは、相手の素晴らしいディフェンスがあるからこそ、ということだ。

相手選手はボールを取り返すために様々な手を使ってディフェンスしてくるから、攻撃する側の我々はそのディフェンスにアジャストしなければいけない。それは予測できるものではないし、ゲームプランとして準備できるものではない。頭で考えてできることではないんだ。

だから、彼らは私の技を真似したというわけではなく、きっと彼らも試合の流れの中で自然と私と同じ動きをしただけだと思うよ。

――2015年と2016年に2年連続でスラムダンクコンテスト王者に輝いたザック・ラビーン(ミネソタ・ティンバーウルブズ)が現役最高のダンカーだと考えられています。彼のダンクについてはどうお考えですか? 彼のダンクはあなたとはタイプが違いますか?

彼は私とは違うタイプのダンカーだね。彼のダンクには創造性と驚きがある。それに、彼は私ほど体が大きくないしね。かつてのダンクチャンピオンであるドワイト・ハワードやブレイク・グリフィンは210cm近い身長のビッグマンだったけれど、ラビーンは196cmのガードだ。かつてはガードといえば、試合中は得点や司令塔の役割を担う選手だったけれど、最近では凄いダンクをするガードの選手が増えているね。

2年前のダンクコンテストで、ラビーンは人々の度肝を抜いた。その分、今年のダンクコンテストでは彼には多大なプレッシャーがあったはずだ。そして、優勝を争ったアーロン・ゴードン(オーランド・マジック)がとても素晴らしく、多くの人々はゴードンのほうがチャンピオンに相応しいと思っただろう。だが、そういった競い合いがあるからこそ好ゲームが生まれるし、オールスターウィークエンド全体が盛り上がる。今後も彼らのダンクに期待したいよ。

――では、ラビーン以外で、あなたの好きなダンカーを教えてください。

まず思い浮かぶのはビンス・カーター(メンフィス・グリズリーズ)だ。他にも、ドミニク・ウィルキンズ、マイケル・ジョーダン、コービー・ブライアントもいいダンカーだったね。そう考えると、やはり身長があまり高くない選手のダンクが好きなのかもしれない。

それから、1990年のダンクコンテストでケニー・スミスが決めたダンクは忘れられない。彼はゴールに背を向けて脚の間からボールをバウンドさせて、そのボールがボードに当たって跳ね返ったところを空中で掴んで、そのままダンクしたんだ。あれは本当に素晴らしかった。

あとは、日々の試合の中でダンクコンテストと同じようなダンクを披露するショーン・ケンプは凄かったね。

それから……クライド・ドレクスラーの名前は出したかな? 彼は私の親友なのだけれど、彼もまた素晴らしいダンカーだったよ。

――あなたが多くのNBA選手から尊敬されているのは、あなたが素晴らしい選手だったからにほかなりませんが、それ以上にコート内外におけるあなたの礼儀正しさや人柄が大きな要因だと思います。たとえば、1977年のNBAファイナルで優勝を逃した際、あなたは試合後にチームメイトを引き連れて相手チームのロッカールームに行き、彼らを祝福したという話はとても有名な逸話です。しかし、最近のNBAを見ると、派手なダンクを決めた後に自分の筋肉を見せ付けるパフォーマンスをしたり、接触プレイの後に相手選手を威嚇するような言葉を発したり、また最近ではドレイモンド・グリーン(ウォリアーズ)が相手選手の股間を蹴ったりもしました。そういった最近の選手たちのコート上での振る舞いについては、どうお考えですか?

最近の選手が誰しもそういった振る舞いをするわけではないから、誰を応援して誰を応援しないかはファンの判断に委ねられる。それを踏まえた上で、私の個人的な見解は「自分がプロフェッショナルだということを絶えず意識しなさい」ということだ。バスケットボールの試合には必ず観客がいるのだから、絶えずプロ意識を持ってプレイしなくてはいけない。

試合が白熱してくれば自ずとプレイも激しさを増すし、勝ちに強くこだわるからこそ相手に対する敵対心が増すし、審判への不満も増すだろう。しかし、選手は正しいプレイや振る舞いを心がけて、バスケットボールという競技の本質を守らなければいけない。そして、自分が最高峰でプレイする“バスケットマン”だということを常に意識してもらいたい。

――あなたはNBAのレジェンドとして長年リーグの親善大使的な役割を果たしています。あなたがプレイした70年代や80年代と比べて、今のNBAは様変わりしましたか?

大きく変わったね。NBA自体が経済的に裕福になったから、選手のサラリーも上がった。巨額のテレビ放映権契約により、来シーズンからさらにサラリーも上がるしね。そのおかげで、現役引退後に選手が直面する経済的な問題もいくらか改善されるだろう。そういった経済的な部分も含め、長年にわたってリーグに関わる多くの人々が努力を重ねたおかげで、NBAは世界一のリーグに成長したと思う。

――昨シーズンまで日本のバスケットボールには2つのトップリーグ(NBLとbjリーグ)があったのですが、その2つのリーグが“Bリーグ”という1つのプロリーグに統合され、今秋から新たにスタートを切ります。あなたも現役5年目まではABAのバージニア・スクワイアーズとニューヨーク・ネッツでプレイし、その後ABAがNBAに吸収されたことをきっかけにNBAのフィラデルフィア・76ersにトレードされ、引退まで76ersでプレイしました。プロ選手としてのキャリアの途中で、自分が所属していたリーグが吸収されたことは、当時どのように感じましたか?

私は5年間ABAでプレイして、その後11年間NBAでプレイしたけれど、ABAとNBAは全く性質が異なるリーグだった。ABAはエンターテインメント性を重視し、3ポイントシュートや3人制審判を導入したり、6ファウルのファウルアウトを撤廃したりした革新的なリーグだった。一方のNBAはより競技志向で、ABAからもルールを吸収するなどして成長を続け、世界一のリーグになった。

バスケットボールの歴史上、これだけ大きなリーグの吸収劇は他に類を見ないけれど、契約などの交渉事は今と変わらず全てエージェントがやっていたので、現役選手だった当時の私は、とにかく「試合に出てプレイするだけだ」と思っていた。ただ、そういった歴史的な転換期に選手として立ち会えたことは非常に大きな経験となったね。

――リーグの吸収に伴い、あなたは新しいリーグの新しいチームでプレイすることになりました。そういった急激な環境の変化に適応するのは難しかったでしょうか?

とても難しかった。NBAに移籍すると同時に76ersにトレードされ、まず最初に「優勝するためには自己犠牲が必要だ」と教えられた。ABA時代は自分が40点取れば試合に勝つことができたけれど、NBAではそうはいかなかった。それは移籍した最初のシーズンにNBAファイナルでポートランド・トレイルブレイザーズに負けたことでも明らかだった。NBAでの究極の目標は言うまでもなく優勝であり、それには適切なチームマネジメントが必要だった。

私はNBAに移籍後、6年の間に3回NBAファイナルに進出し、7年目でようやくNBAチャンピオンになることができた。NBAに順応し、優勝することは本当に難しいことだったよ。

――あなたは2度のABAチャンピオンと1度のNBAチャンピオンを獲得しました。2つのリーグでチャンピオンになったことは、あなたにとってどれだけ特別でしょうか?

ABAとNBA両方で優勝したのは私だけだから、それはとても意味のあることだと思っているよ。このことは、現在アメリカにあるNBAやWNBAだけでなく、日本や中国をはじめとする世界中のリーグにおいても貴重な歴史なので、今後も語り継いでいきたいね。

――あなたは16年の現役生活の間、毎年オールスターに選出されるなど、リーグのスーパースターであり続けました。どうやったら16年もの間モチベーションを保ち続けることができたのでしょうか? そして、どうやって高いパフォーマンスを保ち続けたのでしょうか?

当時私は、試合であっても練習であっても、たとえ試合後やオフの時間であっても、いつも変わらずプロフェッショナルでいることを意識していた。大学を卒業してプロになると、そこからいきなり大人としての生活が始まる。そのときに私を支えてくれたのは、チームメイトやコーチやトレーナーやエージェントだった。

だから、私は彼らの恩を裏切らないためにも、プロとして責任あるプレイをし続けた。また、プロ入りしてから妻と子供にも恵まれたので、家族を守るという責任感も生まれた。今振り返ってみると、そういった責任感が私のモチベーションやパフォーマンスを支えたのだと思う。

――このオフシーズンのNBAの動きについてお話を聞かせてください。なんといっても今オフの一番の話題はフリーエージェントのケビン・デュラントがゴールデン・ステイト・ウォリアーズと契約したことです。この件に関して、NBAレジェンドの1人、ラリー・バードは「現役時代に自分がロサンゼルス・レイカーズに入ってマジック・ジョンソンと一緒にプレイすることなんて全く考えなかった」とコメントしていますが、あなたはこのデュラントの決断についてどのようにお考えですか?

デュラントの決断は意外だったけれど、過去にレブロン・ジェームズもクリーブランド・キャバリアーズからマイアミ・ヒートに行き、またキャブズに戻ったからね。サラリーや契約条件の変化もあるので、最近ではそういった移籍が普通なのかもしれない。彼らは、チームに残るかどうかではなく、「どうやったら自分が優勝できるか」ということを重視しているのだろうね。

ただ、唯一私が懸念しているのはデュラントのモチベーションだ。彼は長年自分がエースを務めたチームを離れ、優勝候補のウォリアーズに移籍した。しかし、ウォリアーズのエースは、昨シーズンのプレイオフで火花を散らしたステフィン・カリーだから、果たしてどうなるだろうね。

とにかく、バスケットボールだけにかかわらず、世界中のあらゆるスポーツ選手にとって重要なのは、自分が責任を持って守るべき家族が一番良い環境にいられるかどうかだよ。

――コービー・ブライアントが昨シーズンをもって引退し、先日ティム・ダンカンが引退を発表しました。彼らの引退を受けて、新たなNBAの時代が始まりそうな予感があります。来シーズン以降、NBAにはどのような変化が訪れると考えますか?

コービーもダンカンも、この20年近くにわたってリーグにとって非常に大きな存在だった。最後の数年は彼らにとって望ましくないパフォーマンスだったかもしれないけれど、彼らがコートの内外、そしてリーグにもたらした影響は計り知れない。

彼らは、自分たちのチームだけでなく、相手チームの選手までレベルアップさせてきた。きっと彼らのプレイや意志は次の世代に引き継がれているから、2人は安心して引退後の暮らしを楽しんだらいいと思う。彼らなら、バスケットボールがない暮らしもきっとパラダイスだよ(笑)。

文・イラスト:西尾瑞穂
イラストレーター、CGデザイナー、バスケットボールライター。イラストやCGの制作、バスケットボール取材、コラムや漫画の執筆、写真撮影など幅広く活動。2013年から1年間NBA.com Japanでイラストコラムを連載した。現在もユタ・ジャズ関連を中心に毎シーズンNBA現地取材をしている。2011年にデロン・ウィリアムズとカイル・コーバー主催のチャリティ・ドッジボール大会のメイン・ビジュアルを手がけたほか、NBA選手たちのTwitter、Instagram、Facebookのアイコン用イラストを数多く描いている。 Twitter: @jashin_mizuho Instagram: jashinmizuho


著者