NBA

[コラム] 佐々木クリスが語る 『Doctor J』 後編

Sporting News Logo

Hello how’s it going guys! みなさんお元気ですか? 前回 に引き続きNBAレジェンドに迫る後編、早速どうぞ!

ジョルジオ(以下G):ドクターJがどれだけのスターだったか……1981年にミラノのコンサートプロモーター(イベント開催業者)からM・マローン、シュガー・レイ・ジャクソン、ドクターJをイタリアに連れてくると連絡があった。プロモーター依頼を受け、2、3日一緒に帯同したが、10月5日に開催された試合には1万1000人もの人々が来場した。この年NBA MVPを獲得していたこともあって、ファンたちはWE LOVE YOU(愛している)、YOUR ARE NO.1(あなたがナンバーワン)などと書かれたプラカードを掲げ、腹の底から叫んだものさ。この日も30得点以上決めたが、興奮の渦と化していた。

TVもない時代。雑誌と新聞だけの情報だったので信じられない熱狂ぶりだった。ヨーロッパ、イタリアでもどういった存在であったかが分かるだろう。真の伝説だった。78年、79年にもNBA選手を招いたオールスターゲームのようなものは開催されていたが、1981年の試合は何年も後に記憶される試合になった、まさにマイルストーンと言えるだろう。

(C) GiorgioGandolfi (1981年ミラノでの試合。ドクターJとジョルジオ)

クリス(以下C): ダンクを語らずして、ドクターJは語れないと思います。ジョルジオさんが一番印象に残っているジュリアスのダンクはどれですか?

G: とても沢山あって困るな。1977年ファイナル、GAME6。私は現場にはいなかったけど、ポートランド・トレイルブレイザーズのビル・ウォルトン越しダンクは映像で観たけどすごかったね。とても重要なシーンだと思う。

あと“フィンガーロール”の名手としても有名だった。リリースが空中高くとても柔らかかった。フィンガーロールを始めたのはサンアントニオ・スパーズの名プレーヤー、ジョージ・ガービンだけど、ジュリアスは極めていた。

ジュリアスは自分でダンクを名付けるのが好きではなかったが、“トマホーク”ダンクと名付けられた種類が有名だった。ダレル・ドーキンス(フィラデルフィア・76ersのチームメイト)がダンクを次々と命名していたけどもジュリアスには関心がなかった。

(C) GiorgioGandolfi

とても幸運なことに、フィラデルフィアでのヒューストン・ロケッツ戦で2度もバックボードを壊したり、ラリー・バード相手に決めたりしたのを観ることができた。76ersにいたとき、逆のコートサイドにいたのだけど、ボードの裏をくぐってロサンゼルス・レイカーズ相手に決めたリバースショットが数々の名場面の中でもダンク以上に強烈な印象だね。1980年のファイナルだった。(最終的には4勝2敗でレイカーズが優勝)。

フィラデルフィアのホームで、逆サイドで写真を撮っていたけどひっくり返ったよ。他の人がしていたように飛び上がったり、叫んだりはしてないが、ひっくり返った(笑)。とてつもない場面だった。人生で観たもので、マイケル・ジョーダンと比べても一番だね。

当時は、ビデオカセットが靴箱サイズだった頃。ABAの弁護士がビデオを沢山送ってくれた。ABAのダンクコンテスト、フリースローラインから跳んだダンクも信じられなかったね。

WOWOWメンバーズオンデマンド
NBAドキュメンタリー ドクターJ 史上最高の芸術家
(WOWOW加入者限定コンテンツ)

C: 羨まし過ぎます。ちょっと話題は変わるのですが、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バードなどが参加したドリームチーム1(DT1)がバスケットボール、NBAのグローバル化に大きな影響を与えたと言われています。ドクターJはイタリアやヨーロッパにどのような影響を与えたのでしょうか?  >>>続きはWOWOW NBA ONLINEでチェック!!

文:佐々木クリス( WOWOW NBA ONLINE Twitter: @chrisnewtokyo

WOWOW NBA ONLINE 2月27日掲載コラム

【関連記事】

[コラム] 佐々木クリスが語る 『Doctor J』 前編

[コラム] 佐々木クリスが語る『NBAの会場に響く温故知新』

[コラム] 佐々木クリスが語る『エアー・カナダ』

[コラム] 佐々木クリスが語る『リーグNo.1のバックコートコンビは!?』

[コラム] 佐々木クリスのクリーブランド&シカゴ取材レポート

[コラム]佐々木クリスの 『ジョン・ウォール来日ツアー リポート ♯2』

[コラム]佐々木クリスの 『ジョン・ウォール来日ツアー リポート ♯1』

著者