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D・ドーキンズ追悼コラム:スラムダンクを新たな領域に導いた男

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58歳の若さで急逝した元NBA選手ダリル・ドーキンズは、NBA史上最もユニークな選手の1人だった。パワフルなダンクでバックボードを粉々に破壊したかと思えば、人懐こい笑顔とジョークで周囲を笑わせる、そんなギャップを持つ選手だった。ドーキンズがフィラデルフィア・76ersに所属していた当時から取材を続けた、NBA.comのフラン・ブランベリー記者が、当時の記憶と共に、ドーキンズについて思いを巡らせた。


誰も、あの日に何か起こるなんて思っていなかった。

長いレギュラーシーズン序盤の1試合としか考えていなかった。1979年11月13日、フィラデルフィア・76ers対カンザスシティ・キングスの後半開始から38秒後、モーリス・チークスのパスがリムの右サイドでワイドオープンだったダリル・ドーキンズに渡るまでは。

ドーキンズの力強いダンクが決まった瞬間、バックボードのガラスが粉々に割れ、何千もの破片となってキングス本拠地のゴール周辺に降り注いだ。その衝撃たるや、ベスビオ山と宇宙の起源とされるビッグバンの中間とでも言えば伝わるだろうか。

この衝撃と同じくらい、私の脳裏に焼き付いているフレーズが存在する。

“Chocolate Thunder Flyin', Robinzine Cryin', Teeth-Shakin', Glass-Breakin', Rump-Roastin', Bun-Toastin', Wham, Bam, Glass Breaker I Am Jam.”

プロバスケットボールの試合でバックボードが破壊されたことは、このときが初めてではなかった。だが、人々の記憶に残ったドーキンズのワンプレーが、スラムダンクを新たな領域に導いた。まるで、洞窟の壁にあった木片が、モナリザのようなアート作品に転化したかのように。

木曜の朝、最近では当たり前の出来事のように、ある記事をインターネット上で目にした。それは、ページの更新ボタンを押しても、そこにあり続けた。

ダリル・ドーキンズ、58歳の若さで急逝。

白髪を見つける、あるいは鏡で見た自分の顔に皺を見つけることよりも、あるニュースを見聞きすることのほうが、時の流れを実感させられる。

大柄だけれど子供のようで、陽気で、いつもフレンドリーな性格のドーキンズは、1975年、メイナード・エバンス高校卒業後の18歳のときに76ersからドラフト指名を受け、NBAの世界に足を踏み入れた。

あれから40年が経ち、今年の2月にニューヨークで開催された昨シーズンのオールスターゲームで、彼と再会した。彼は相変わらず唯一無二の存在で、私が過去に取材したNBA選手の中で、誰よりも陽気な人物のままだった。

スーパーマンマントのドワイト・ハワード、長過ぎるニックネームをつけるシャキール・オニールがユニークな選手として話題になった時代以前、ドーキンズは、自らを「ラブトロン星から来た宇宙人」と形容するなど、ひょうきんな性格でファンの心を掴んだ。

ドーキンズがキャリア2年目を迎えた頃、チームには、ジュリアス・アービング、ジョージ・マギニス、ダグ・コリンズ、ワールド・B・フリー、ジョー・ブライアントら実力者が揃っていたものの、彼はロスターで生き残り、見出しに掲載されるような活躍を見せ始めた。自分のダンクに名前をつけることでも知られたドーキンズは、その破壊的なダンクで人気を博し、76ersを代表する選手に成長した。

もし21世紀にドーキンズが現役だったら、その優れたワードセンスにより、ソーシャルメディアでもスターになっていたかもしれない。あるいは、寛容ではないユーザーも多いTwitterなどでは、キャリア14年で平均12得点、6.1リバウンドという成績に終わり、1シーズンのパーソナルファウル数で歴代1位、2位に名前を残した選手だけに、批判され、叩かれた可能性もある。

しかしドーキンズは、自分が現役だった時代に選手でいられたことを誇りに思っていると話す。彼は以前、「試合が好きだったし、チームメイトとのプレーを楽しめたが、(バスケットボールを)生きるか死ぬかの仕事と考えたことは一度もなかった。現代のほうが報酬は良いだろうが、私は自分が現役だった時代にプレーできて良かったと思う。当時のほうが、今よりも楽しかった」と、語っていた。

彼との出会いは、彼が21歳で、私がフィラデルフィア・ジャーナルの駆け出し記者だった1970年代後半だった。私は当時、“The Dunkateer Talks Back”というウィークリーコラムの取材のため、毎週、練習後に彼から話を聞いていたのだが、読者からの質問に答える彼の話が面白すぎて、取材を終えるころには決まってお腹を抱えて笑い転げていた。そんなときに、あのダンクが生まれた。

パスを受けたドーキンズは、ドリブルもせず、躊躇もせずにダンク一閃。その瞬間、バックボードのガラスが数千ものピースに別れてコートに落下し、会場が揺れた。ドーキンズはのちに、このときの心境をこう語っている。

「誰よりも私が驚いた。アメリカ男子陸上チームの一員としてオリンピックに出場できるかと思うほど、速くゴール下から逃げた。まるで、火傷した猫のようにね。リムを掴んだ瞬間、ゴムでも触っている感覚で、リムが壊れて落ちると思った。すぐに逃げないといけないと思ったよ。いまだに、あの映像を見ると笑ってしまう。(キングス控え選手の)マイク・グリーンがベンチ後方で飛び跳ねているんだ。まるで、私が彼の命を奪いに彼のほうへ行くとでも思っているかのようにね」。

先述した通り、ドーキンズは自分のダンクに名前をつける癖があった。当然のように、記者はキングス戦でバックボードを粉砕したダンクの名前を彼に訊ねたが、彼は「次のコラムをお楽しみに」としか言わなかった。それから2日後の朝、遠征でサンアントニオに滞在していたとき、エレベーターで一緒になった私に、彼は一枚の紙を手渡した。そこには手書きで、あのフレーズが書かれていたのだ。

“Chocolate Thunder Flyin', Robinzine Cryin', Teeth-Shakin', Glass-Breakin', Rump-Roastin', Bun-Toastin', Wham, Bam, Glass Breaker I Am Jam.”

それから3週間後、彼はスパーズとのホームゲームで再びバックボードを破壊し、当時のコミッショナーだったラリー・オブライアンが、現在使用されている飛散防止のバックボードを採用した。

ドーキンズは、現役引退後に指導者に転身。最近ではリーハイ・カーボン・コミュニティカレッジの男子バスケットボールチームのヘッドコーチを務め、NBAの様々なイベントにアンバサダーとして出席したが、その人柄は昔とまったく変わっていなかった。

2013年にヒューストンで開催されたオールスターゲームで、私は12歳の孫を彼に会わせた。彼は、いつものように孫を笑わせると、ある助言を授けてくれた。

「自分のままで、い続けなさい」。

そんなチョコレートサンダーは、今でも私を笑顔にしてくれる。

原文: Dawkins' dunks, persona added dynamic to NBA game by Fran Blinebury/NBA.com(抄訳)

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NBA日本公式サイト『NBA Japan』編集スタッフ