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[丹羽政善コラム第23回] ジョン・ウォール ――迎えた充実のとき

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知られざる壮絶な生い立ち


ジョン・ウォールワシントン・ウィザーズにドラフトされた2010年6月、19歳にしては落ち着いているとの評価があった。インタビューでの受け答えは大人びていて、大学でのプレーぶりも1年生とは思えないほど冷静だった。人格形成の裏にあるものはなにか。いったい、19歳にしてどれほどの人生経験を積んできたのか。生い立ちを辿ると、その壮絶さに多くは息を呑む。

2歳から8歳頃まで、父親との接点は限られた。週末になると母親は、ウォールらを連れて、車を走らせる。向かったのは刑務所。父親は強盗の罪で服役中だった。面会時間は約2時間。まだ幼かったウォールは、そこに父親が住んでいると思い込んでいた。

8歳の夏、父親が予定より1カ月ほど早く出所してきた。しかし、肝がんに犯されており、余命わずか。そういう配慮だった。ウォールらは家族でビーチに出掛けた。しかし、旅行の最終日、父親の様態が急変。ウォール自身、バスタブが血に染まっているのを覚えているそうだ。父親は翌朝、帰らぬ人となった。

当時を振り返ってウォールは、ワシントン・ポスト紙に、こう話している。

「あの頃、死の意味が分からなかった。どうして死ぬのか、神はどうして、人を連れて行ってしまうのか。分かったのは、中学生になってからかな。でも、今でもビーチに行くのは、気が進まないんだ」。

死そのもの。父親との別れ。それまで、なぜ別れて暮らさなければならなかったか。8歳の彼にはそれらすべてを理解し、受け入れることは難しく、やがて攻撃的な性格となり、荒れた。彼自身、「信じられなかった」と当時を振り返って語っている。「誰一人として」。

けんかに明け暮れ、学校では問題児扱い。同じくワシントン・ポスト紙にはこんなエピソードが載っていた。

朝、母親がウォールを小学校に車で送っていく。しかし、しばらくは駐車場で時間をつぶしたそうだ。自分の息子が学校で問題を起こし、2時間もしないうちに、「手に負えないから迎えに来てくれ」と連絡があることが多かったからだ。母親はそのとき、息子が将来、父親と同じように刑務所に入ることさえ、覚悟したという。

やがて始めたバスケットでも、何度も危機が訪れる。バスケットキャンプに参加したが、あまりの態度の悪さに、チームから追放処分を下された。そのときのコーチの述懐によれば、常に、いつ感情が爆発してもおかしくない状態だったそう。事実、自分の思うように行かないと、チームメイトらにも当たり散らした。

ただ、バスケットを取り上げられて、ウォールはゆっくりと自分を見つめ直し、心に決めたことがある。「(逃げるところは)バスケットしかない。父親のためにプレーしよう」。

徐々に態度を改めていったウォールを、コーチは試した。試合中、彼に対してあえて厳しくコールしたのだ。そんなときでもしかし、ウォールはボールを下において、立ち去れるほどに感情をコントロールできるようになった。そのときのコーチはそれで安心したが、彼の態度の悪さは、後々も問題になった。高校2年で転向すると、転校先の高校では、バスケットチームに入れなかった。態度が問題とされたのだ。そのときも彼は、相当荒れたようだ。

そのとき、かつてサマーリーグなどでウォールを指導したコーチらが中心となってウォールを救い、小規模な高校に転校させた後、ゆっくりとウォールの心を氷解させていく。

ウォール自身、こう話したことがある。

「あのときのコーチらは、バスケットを使って、自分に人生を教えてくれた」。

その後、高校バスケット界で頭角を現し、ケンタッキー大、ベイラー大、ノースカロライナ州立大など、バスケットの有名校から熱心な誘いが来た。

ベイラー大など、高校時代に彼を救ったくだんのコーチをスタッフに迎え、ウォールを囲い込もうとした。一方で、ウォールは、自分のスタイルに合った大学を探した。その中では、選手の個人能力を尊重するジョン・カリパリHC(ヘッドコーチ)の元なら、と考えたという。カリパリHCは、メンフィス大からケンタッキー大に移ったばかりだったが、ウォールの目にはデリック・ローズ(現シカゴ・ブルズ)がメンフィス大時代、カリパリHCから、自由にプレーする裁量を与えられていたと映り、それが魅力に映った。

大学を選ぶ過程で規定違反があり、ケンタッキー大の開幕戦には出場できなかったものの、それまでの人生と比較すれば、試練のうちに入らなかったかもしれない。分かりやすく言えばあのとき、お金を返すだけで、決着がついたのだから。

その後は順調。大学入学時から、ドラフト1位指名候補と噂されたが、注目を浴びる中で期待通りに成長し、そのままいの一番で指名され、NBA入りを決めたのだった。

父親のために


冒頭で何度か引用したワシントン・ポスト紙の記事は興味深いが、その中ではウォールの父親の犯罪についても触れられている。

母親はウォールにほとんど何も伝えていなかった。ウォール本人も自分では調べてようとしていなかった。ワシントン・ポスト紙の記者はそれを調べた上で、本人に伝えている。

ウォールが子供の頃に服役していたのは、コンビニエンスストア強盗が原因。ウォールが生まれて1カ月も立たない頃のことだったという。結婚する前には、殺人事件で懲役刑を受けている。それを伝えられたウォールは、こう言っていた。

「(殺人のことは)全く知らなかった。母親はなにも教えてくれなかったし、これからも教えてくれないと思う」。

そういう過去があるにもかかわらず、父親への思いは変わらないように見えるが、と聞かれたときには、こう話している。

「それが、俺の父親だからだ」。

ほとんど父親を知らずに育った。母親は、複数の仕事を掛け持ちし、ウォールのそばにはほとんどいられなかった。そういう中で彼は幼い頃、何も信じられなかった。ただ、怒りを爆発させることでしか、自分を表現できなかった。なんとかしたいと考える多くの大人たちが彼を救い、軌道修正したが、最終的にウォールは、父親のためにバスケットをしたいと考えた。ほとんど接点がないとはいえ、それが親子の絆の強さなのだろうか。

以来、父親への思いが彼の人生の軸になっている。そこが決してブレなかったことが、彼をここまで導いたと言えるのかもしれない。

文:丹羽政善


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